「野ブタ。をプロデュース」は「リバーズ・エッジ」の本歌取?

先頃放送を終えたテレビ・ドラマ「野ブタ。をプロデュース」の第7回から第9回までを続けて見直し、これはやっぱり岡崎京子の「リバーズ・エッジ」に対する「本歌取」というか「返歌」というか「アンチ・テーゼ」というか「オマージュ」というか「引用」というか「サンプリング」というか何といったらいいのか本当はよく分からないけど、とにかくそんな感じの、少なくとも「リバーズ・エッジ」を激しく意識した作品であるという思いを新たにした。なにしろ「意図的」としか思えないほど共通の「要素」が頻出する。「東京の下町の川の畔にある高校」という設定をはじめとして、「河原に広がるススキの原」「橋」「校舎の屋上を舞台に交わされる会話」「校舎の屋上から見上げる空」等々、出るわ、出るわ…
これが「意図的」でなかったら何なんだ?
もちろん食い違いもある。「山田一郎」が「河原に広がるススキの原」で「白骨死体」を見つける代わりに、「修二」は「野ブタ」を見つける。物語の終盤、気がつけば登場人物たちに別れが迫っていたというパターンを踏襲しながらも、「野ブタ。」では最後に待ち受ける大逆転劇。そして何よりも「爽快」ではありながらも結局は「殺伐」としたエンディングの代わりに「心温まる」「小さな幸福感」すら感じさせる後味。「リバーズ・エッジ」では「潮の香り」と本当に聞こえたのか聞こえなかったのかも定かでないほど幽かな「汽笛」でその存在がほのめかされるだけの「海」に、「野ブタ。」では主人公達が実際にたどり着いてしまうというのも大きな違いかもしれない。*1しかしこの「食い違い」も「意図的」なものなのであって実は「リバーズ・エッジ」に対する「野ブタ。」からの「回答」なのだと解釈するのは「穿ち過ぎ」というものだろうか?
でも、前作「すいか」で「岡崎京子」をさり気なく「引用」していたという*2木皿泉の脚本だけに、あながちそんなこともないわけではあるまいと思うのだけど…


もちろん、この作品は第一義的には小説「野ブタ。をプロデュース」のテレビ・ドラマ化であり、「小説に対する返歌」でもあり得る。小説野ブタ。をプロデュースの最後では主人公が新たな舞台での「仮面劇」の「仕切り直し」という「悪しき循環」に陥るのに対して、このドラマでは「彰の再登場」という大逆転劇によってその「循環」が断ち切られる。何故なら「彰」がいる限り「修二」の「仮面」はどんどん剥がれ落ちてしまう、というよりも、「彰」こそが「修二」の「影」*3というか、抑圧され潜在していた「もう一つの人格」の「具現」であり、その意味で、ドラマの中で「野ブタ。」が言ったように、まさしく、彼らは「二人で一人」なのだ。更に勘ぐれば「野ブタ。」もまた「修二」の「アニマ」なのだという解釈も可能かもしれない。…本当か? ちょっとウソのような気がしてきた。ユング紛いの怪しげな解釈はここら辺でやめよう。段々ボロが出てきそう… 要するに、こんな理屈をこね回して「反芻」するのもまた楽しいほどのテレビ・ドラマの秀作だということじゃないかしら?


尚、「野ブタ。」ファンには第二次惑星開発委員会による「野ブタ。をプロデュース」の徹底解析ブログ「週刊 野ブタ。」を改めてお薦めしたい。ここを読めば「野ブタ。」がますます好きになってますます楽しめるようになるぞ!
以上、お粗末。

*1:つまり「野ブタ。」は「リバーズ・エッジ」の「更にその先」に到達することを目ざした作品?

*2:伝聞。実際には見ていない。こうなると是非「すいか」を見てみたいという気持が強くなってくる。

*3:そういえば「彰」という字と「影」という字は形が微妙に似ている。これも仕組まれた符牒であろう…というのはウソで、きっと偶然だよな。