山岸凉子「日出処の天子」

日出処の天子 (第1巻) (白泉社文庫)

日出処の天子 (第1巻) (白泉社文庫)

関西旅行から帰ってきた日の晩からひどい咳が出始め、翌日は、貴重な晴天のゴールデンウィークの一日を棒に振る。しかたがないので寝床の中で(熱でやや朦朧としながら)山岸凉子の「日出処の天子」全巻を読み返していた。


本作はご承知のように聖徳太子が実は「超能力者」でその上「ホモ」の「美少年」だったという(史実完全無視の)トンデモ系の少女マンガである。こういうトンデモ系の設定の場合、設定倒れに終わるのが普通で、成功したとしてもせいぜいのところが「ゲテモノ」「キワモノ」「珍品」止まりになるはずなのだが、本作は違う。日本マンガ史上に燦然と輝く珠玉の名作に、しかもシリアスで格調高い作品に仕上がっている。何度目かの再読だが、この二十年以上昔に描かれたマンガが今も全く色褪せていないことを再認識。というか、昔読んだときよりも一層面白く感じられた。


以下、ネタバレ有りの感想メモ。
尚、言うまでもないが、これらはあくまで「作品」に対する個人的な解釈の一例に過ぎない。当然、違和感を覚えて「こんな話じゃない」と反撥する人もいるかもしれないが、そういう人はそういう人で自分の「日出処の天子」を見つけ出せばいいのだ…


聖徳太子 性格形成の秘密 或いは「母原病
今回の再読で印象に残ったのが聖徳太子の母親である穴穂部間人媛(あなほべのはしひとひめ)の性格設定。
一見柔和で優しさに溢れる母親のように見えるが、巫女的な霊能力者の素質を持っている。聖徳太子の「超能力」も実はこの母親から伝わったものに他ならない。ところがこの母親は、「自分自身の超能力」に対する嫌悪と恐怖を、息子である聖徳太子に投影してしまうのだ。彼女にとって息子は「化け物」に他ならない。彼女が息子に感じる嫌悪と恐怖は、自分自身に対して自分自身が感じている嫌悪と恐怖に他ならないのだが、彼女には全くその自覚がない。自分はまともで、異常なのは息子なのである。聖徳太子の中には女性に対する激しい憎悪と他者に対する共感の欠落が育まれてゆくことになる。この「親子関係の真実」に気付いた蘇我蝦夷(えみし、本作中では「毛人」の字を当てる)が「あの人があんなふうに育ってしまったのは当たり前だ。全てはあなたのせいではないか!」と母親を糾弾するシーンは印象的。蝦夷の剣幕にショックを受けながらも、自分が何を非難されているのかピンと来ていないらしい母親の表情はリアル。
元々聖徳太子のキャラクターは「ほとんどあり得そうもない」タイプの人物像なのだけど、そうであってもその性格形成にこれだけの「理由」を準備しておく作者の緻密さは素晴らしい。


▼不幸の典型 刀自古郎女の場合
主要登場人物のほぼ全員が悲惨な運命をたどるのが本作の特徴だが、中でも、蘇我蝦夷(えみし)の妹である刀自古郎女(とじこのいらつめ)のたどった運命はとりわけ悲惨なものであるように思える。
そもそも少女マンガの中で明朗闊達な12歳のお転婆ブラコン美少女として登場した人物がその後悲惨に転落してゆくなどということがあり得るだろうか? そのあり得ない掟破りを平然とやってのけるのが山岸凉子という漫画家だが、本作においてもやりたい放題をやっている。
まず父である蘇我馬子物部氏の対立激化に伴い、生まれ育った蘇我の家から母の実家である物部氏へと母親とともに送り返される。大好きだったお兄さん、蘇我蝦夷ともお別れである。
ここまでは少女マンガの範疇だが、その後が凄い。物部の家では蘇我氏の女として虐待されたあげく使用人たちに輪姦され妊娠→堕胎。やがて物部氏蘇我氏に滅ぼされ、蘇我氏の生家に戻ることが出来たものの、今度は陵辱の過去を周囲の人々に知られまいかと怯える日々が始まる。天皇の后になる話が持ち上がったときも過去にこだわり自殺未遂をしでかす始末。しかし実は周囲の人々は彼女の「過去」を知っているのだ。知っていながらも知らないフリをする人々の態度は誇り高い彼女の心をかえって傷つける。
しかも陵辱のトラウマは男性嫌悪を生み出し、その男性嫌悪こそが一方で彼女のブラザー・コンプレックスを強化してゆく。男性「一般」への嫌悪が強まるほど、その代償として、彼女の中で「男性としての兄」が「理想化」されてゆくのだ。はっきり言って彼女はもう頭がおかしい。無言で兄に接吻するシーンには「狂気の妖しい魅力」すら漂う。思いあまった彼女はついに兄を「罠」にかける。暗闇の中で「恋人」になりすまし「肉体関係」を結んでしまうのだ。しかも協力した下女の口をふさぐため自ら刺し殺してしまう。しかしその「行為」が引き起こしたのは「常識人」の兄の「激怒」と「拒絶」だけだ。
彼女は失意のうちに「実の兄の子」を身に宿したまま聖徳太子の元へと嫁ぐ。もちろん、そこで彼女を待ち受けているのはあの「女性を憎悪する男色家」である。何しろ彼は「母」と「女性」を「同一視」することを止められず、「女性=母」が「性欲」を抱くことが許せない。寡婦である額田部女王(ぬかたべのひめみこ)が穴穂部王子(あなほべのおうじ)に引き倒されて嬌声を上げる姿を隠れ見て「売女!」と吐き捨てるように呟くのはもちろん、再婚した母が妊娠したことを知っても「売女!」と罵る。
その男色家は自分の新妻がよりにもよって自分の「思い人」である蘇我蝦夷の子を妊娠していることを知ると、「憎悪」の籠もった冷笑を浮かべながら「取引」を申し出る。つまり「形だけの結婚」をすることによって、彼女は腹の中の子の「父親」を得、代わりに自分は「蘇我氏の後ろ盾」を得る、と。
追い詰められた彼女はこの「取引」を受け入れざるを得ないのだが、「夫」が「形だけの結婚」にこだわるのは、他の男の子供を身籠もったまま結婚しようとした自分に対する「嫌悪」のせいだと思い込み、聖徳太子が「男色家」であるなどとは夢にも思っていない。やがて月が満ち「実の兄蘇我蝦夷の子」が、表向きは聖徳太子の長男「山背大兄王子」として誕生する。
ふたりの関係はここから奇妙な安定期に入る。「息子」の顔を見るため彼女の元に足繁く通い始める聖徳太子。目の中に入れても痛くないと言わんばかりに赤ん坊を猫可愛がりに可愛がる太子の姿を見るうちに彼女の心の中に不思議な気持が湧いてくる。「ひょっとして、太子って、いい人?」太子が「息子」の中に「愛しい蝦夷」の姿を見ているのだなどとは彼女としては知るよしもない。そのうち蝦夷まで訪れてきて、三人揃って赤ん坊をあやし始めたりして、状況はかなりアブノーマル。大昔の人を食ったフランス映画だったら、「所詮人間なんてこんな程度のもんですよ、そのままハッピーエンド!」などということになりそうだが、生憎ここは「フランス」ではない。
やがて決定的な破局がやってくる。太子を追って(そう、彼女はいつの間にか太子を愛し始めていたのだ、何しろ太子は「美少年」だし…)斑鳩の宮までやって来た彼女は、自分の兄である蝦夷の古い服を、太子が夢殿の中に大切な宝物としてしまい込んでいることを発見してしまう。ここまで来てもいまだに状況が飲み込めずに唖然として立ち尽す彼女。するとは背後から突然現れた太子が例の氷のような冷笑を浮かべて「これで分かったろう? お前と私は同類なのだ」と宣言する。


この二人の不安定な関係は、この時点では、まだどちらへでも転び得るものであったように思えてしかたがない。これを機に二人が「深く愛し合う」ようになるなどという展開も、それが実質「ハッピー・エンド」であるか否かは別として、「お話の世界」でも、「現実の世界」でも、それこそ、いつでも繰り返し起こっている「ありふれた出来事」ではないか?


しかし、この物語の中ではそうはならない。
いや、見方を変えれば、二人は確かに「愛」を「交わす」ようになるのだが、それは「歪んだ異様な形」をとらざるを得ない。
太子は自分を愛さなかった「母」と「蝦夷」に対する恨みと怒りを彼女に対して八つ当たり的にぶつけてしまう。太子自身、全てを洗いざらい彼女に対してぶちまけてしまう自分の態度が理不尽なものであることは自覚しているが、その意味するところが彼女に対する「求愛」に他ならないということを認めることが出来ない。
一方、彼女の方も太子の「求愛」を上手く受け止めることが出来ない。「男色家である自分はお前を愛さない。今後お前がどんな男たちと関係を持とうが自分は気にしない。どんな男との間に出来た子であっても全て自分の子供として認めてやる」という太子の挑発を真っ向から受けて立ち、その後、数々の男たちの間を渡り歩くことになるのだ。その様子は作品の中には直接描かれていないが、作品のエピローグとして描かれた中編「馬屋古女王」の中に登場してくる成人後の彼女の子供たちの姿を見ればおおよその見当はつく。彼女は出来るだけ「ひどい男たち」に身を任せることによって、太子を少しでも傷つけてやろうと試みたのだ。そうすることによってしか彼女は太子に対する「思い」を「実現」出来なかったのだとも言えるだろう。


以上は、「日出処の天子」という巨大で複雑な作品の「一部分」に対する「解釈」の「一例」に過ぎない。この「巨大な作品」は、このように「恋愛」の物語として読むことも可能であるが、それと同時に「政治」の物語であり、「歴史」の物語であり、或いは読み方によっては「フェミニズム」の物語であるかもしれない。


二十年も昔にこれほどの「マンガ」が既に存在していたことに驚きを覚える。
二十年前、リアルタイムで読んでいたとき、この作品の「価値」を、当時の自分が十分に認識していたとは思えない。読み返して本当に良かった…(…というわけで、自分と同年代のオジサン・オバサンにも再読をお勧めしたい。)


尚、自分のレビューでは作品の魅力をちゃんと伝えることが出来たのかどうか心許ないので、山形浩生によるレビューにリンクを貼っておく。あの「リバーズエッジ」のレビューにも匹敵する「渾身のレビュー」である。