富野は「機動戦士ガンダム」を超えたのか?(日本アニメ総括2)

1879年4月から翌年1月まで一年弱にわたって放映されたロボット・アニメ。
熱狂的なファンを数多く生み出し、その後のモビル・スーツ・アニメの基本形となった。事実、その後に作成されたモビル・スーツもののアニメで、何らかの形で「機動戦士ガンダム」の影響を受けていない作品は皆無と言っていいほどだ。例えば主人公は何の訓練も受けないまま偶然モビル・スーツを運転することになり、戦いの最中に必死で操作マニュアルをめくりながらも敵を撃破してしまう。その後も自分がモビル・スーツに乗るべきかどうか悩み続けるのだが、周囲の状況に流されて戦いの中にずるずると引き込まれてゆく。或いは子供たちが乗り組む宇宙戦艦。こうした定番的要素は全てガンダムにその起源を見いだすことが出来るだろう。

初めて見たのは確か1980年のはずだから再放送だったのではないかと思う。何気なくテレビをつけたとたんモビル・スーツ同士の強烈な空中戦が目に飛び込んできてテレビの前に釘付けになった。今にして思えば、不慣れなアムロをシャアが弄んでいるシーンなのだが、とにかく凄い。何が凄いのかと言えば、その動きの感覚だ。ああ、そうだ、これだったのだ。自分が長いこと無意識のうちに求め続けていたものに、ようやく出会えたのだ…。一瞬のうちに、そう悟った。

鉄腕アトム」からすでに十五年。あれ以来テレビには数多くの国産アニメが登場していたが、ガンダムは、それまでのアニメとは何かが決定的に違っていた。違うことは実物を一目見ればわかる。しかし、その違いが何であるか特定することは必ずしも易しくはない。敢えて言えば「想像力の生々しさ」だろうか?

「科学的な正しさ」や「事実としての正確さ」等とは別な次元で、細部が「感覚的に生々しい」ことが肝要だ。

ゆったりと回転する巨大な円筒形のスペース・コロニー。「人々はここで子を産み育て、そして死んでいった」という冒頭のナレーションからして、もう違う。スペース・コロニーの存在自体は「鉄腕アトムのビジョン」そのもので、今となっては、その設定自体にリアリティーなど感じられるはずもない。せいぜいが「お約束」として許容できるだけのものだ。しかし、そのスペース・コロニーで「人々が子を産み育て、そして死んでいく」ことまでを視野に入れたアニメがそれまでに存在していたろうか? そんな架空の場所で営まれる人々の「生活」にまで思いを巡らせること、それこそが真の意味での「想像力」だ。作品の冒頭、スペース・コロニーを俯瞰する視線の中にその「想像力」が生きている。雲が流れ、鳥が鳴き、空気に臭いがある。「観念」ではなく「肉体感覚」を通じて何かを思い描く類の「想像力」。最初見たとき心を鷲掴みにしたモビル・スーツの戦闘場面での運動感覚の生々しさも、こうした種類の「想像力」のたまものだったのだ。

…そして月日は流れ、この最初のガンダムから早二十余年。「そろそろ忘れていいんじゃないのかな」というのは、他ならぬ富野由悠季監督自身のことばだが、果たしてガンダムは完全に「歴史的意義」しか認められない「過去の存在」になり果ててしまったのだろうか? この作品に、今、このとき、同時代的な意義を求めることは無理なのだろうか?

…そうかもしれない、とも思う。
例えば、うじうじと煮え切らないアムロに、「新世紀エヴァンゲリオン」の碇シンジの起源を見ることは出来るだろう。しかし、それは起源というだけのことであって、その非ヒーロー的な人格の徹底性において、アムロ碇シンジの敵ではない。その意味ではアムロ碇シンジに乗り越えられたのだ。

…しかし…

最近、同じ富野由悠季監督の新作アニメ「OVERMAN キングゲイナー」を見た。それは確かにすばらしいクォリティーの作品で、アニメ・オヤジの自分(←不気味だ)としては大満足だったのだけど…感激のあまり、昔懐かしいガンダムまでついでに見直してしまったほどだったのだけど…

…面白いんだよなぁ、ガンダムの方が…。
絵としては「キングゲイナー」の足元に及ばぬほど貧弱なガンダムの方が…人間のドラマとしても臭くて欠点見え見えのガンダムの方が、遙かに面白い…

…困ったもんだぜ…




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