「ファウスト」完読!

例の新雑誌「ファウスト」創刊号を全部読んでしまった。
雑誌を、しかもよりにもよって文芸誌を、文字どおり隅から隅まで読んでしまうということはここ何年も、いや、ひょっとしたらここ何十年も無かったことなので、記念に感想など。

西尾維新新本格魔法少女りすか
翻訳家の大森望に「ぼくは『西尾維新からメフィスト賞がわからなくなった』」と言わせた西尾維新。「最近の若い人の好きなミステリの代表例ですね。オレは若いと思ってるミステリ読みの試金石になるかも。」という挑発に乗って「クビキリサイクル」に挑戦して破れ去った過去があるだけに何も期待していなかったのだけど、意外や、意外。今回の「ファウスト」のなかではこれが一番好かった。 一つに、巻頭に据えられた舞城・佐藤・西尾の何れもが「世界征服に挫折する少年の物語」だったせいもある。こうも同じようなテーマが並んでしまったのは、「偶然」なのか、はたまた「時代の要請」なのかは知らないが、とにかくそのような流れで読んでゆくなら自分にもよく分かる。「少年」が「世界征服」を目指してやがて「挫折」するのはいつの世も変わりない。或いは「幼児的全能感」の「敗北」の物語というのか・・・。「当たり前」のことだが、それは「当たり前」で済ましていいことではない。「敗北」を「敗北」で終わらせてしまうなら、社会の変革もないだろうし、芸術も生まれはしない。・・・本当か? よく分からんが、何だかそんな気がする。 佐藤友哉はもう負けてしまって、その苦しみのあまりのたうち回っている。それは正しい生き方だ。舞城王太郎も負けながら、それでもまだその事実が受け入れられなくて、怒り狂っている。全く正しい生き方だ。 西尾維新はまだ負けていないじゃないか、という突っ込みもあるかもしれない。しかし、世の人々を「手駒」として使ってやるとうそぶくこの10歳の傲慢な少年は、まさしく「世界征服」の野望に燃えているのだけれど、実は「不安」なのだ。彼の胸の内には「敗北の予感」の確かな手応えが存在している。そこが痛々しくも切なく、美しい。或いは「不可能な恋愛」をテーマにした甘美な恋愛小説とも読める。作品も終盤にさしかかって(250〜252ページ)、向かい側のホームから線路を挟んでりすかが声をかけてきたとき、あなたは胸を突かれませんでしたか? 「ねー! キズタカー! 楽しかったのは、今日だったねー!・・・だからずっと! 友達でいよーね!」
ぼくはりすかに対し、何か−−とにかく何か、反論や、弁明めいたものを、口にしようとしたが−−ぼくがいくら大声を張り上げたところで、どうせその放送で遮られるだろうから、やめた。ふん……まあ−−なんとでも、思っていればいいのだ。ぼくのことを駒と思っていようがそれ以外の何かだと思っていようが、それはりすかの勝手である。ぼくが、ちゃんと、りすかを駒だと思っていれば−−そう認識さえしていれば、それでぼくはりすかを、『使える』のだから。とりあえずりすかに引っ付いていれば−−通常よりもずっと、『有用』な人間、魔法使い非魔法使いを問わず、色んな人間と会える。そのメリットは計り知れない−−だから、ぼくのことを何と思っても、それはりすかの自由というものさ。ぼくは寛容だ、そのくらいの自由は与えてやろう。
キズタカ君はかわいいねぇ・・・ 何だ、面白いじゃないか、西尾維新。こうなったら西尾の作品は全部読むぞ! (付記:こうした読み方が「正しい」のかどうかは、「正しい読み方」なるものが存在しているのか否かを含めて、分からない。他にも色々な読み方があるだろう。たとえば、「ファウスト」巻末の「ライナー・ノート」で東浩紀は「魔法、血液、核兵器、県境の壁などなど・・・批評的読解をそそるようにかなり複雑な設定を仕掛けている」と評している。へぇ、そんな読み方もあるのか・・?!、という感じ。東浩紀がどんな風な「批評的読解」をしたのか是非知りたい。どこかに書いて欲しい。)
舞城王太郎ドリルホール・イン・マイ・ブレイン
いきなりドライバーを頭蓋骨に突き刺すシーンに遭遇して思わず「やめれ!」と叫んで本を下に置いた。生理的に耐えられない。と、思ったら今度は頭蓋骨の穴に手を突っ込んで脳味噌を掻き回す「フィスト・ファック」シーンで、いやぁ、先生、勘弁してくださいよ。舞城王太郎は暴力そのもの。あまりの粗暴さに時として困惑させられてしまうのだが、作品としては、三島由紀夫賞を取った「阿修羅ガール」よりも納得がゆく。(「阿修羅ガール」は177頁から始まる「森」の章がイージー過ぎるようで納得がいかない。あれは「異世界」というのか「夢の世界」というのか知らないけど、薄っぺらで「内面的なリアルさ」にかけているような印象を受けた。あれに比べるとこの作品の方が断然「リアル」だ。) 出版社側の売り込もうという演出が露骨なだけにかえってシラケて読みたくなくなってしまう面もある。でも、この人ならそんな「逆境」にも耐えて生き残ってゆきそうな気がする。生き残って欲しい。
佐藤友哉「赤色のコスモミュール」
それと対照的に「大丈夫なんだろうか?」と冷や冷やさせられるのが佐藤友哉なのだが、扉がいきなり「佐藤友哉は弱い。佐藤友哉は弱い。佐藤友哉は弱い。佐藤友哉は弱い。佐藤友哉は弱い。佐藤友哉は弱い。佐藤友哉は弱い。佐藤友哉は弱い。佐藤友哉は弱い。佐藤友哉は弱い。佐藤友哉は弱い。佐藤友哉は弱い。佐藤友哉は弱い。佐藤友哉は弱い。佐藤友哉は弱い。佐藤友哉は・・・」という文字で覆い尽くされていたのには爆笑。 佐藤シンパである東浩紀は「もっと爆発しろ!」とハッパをかけていたが、十分手応えのある作品だったと自分は思う。 この作品に限らずこの人の書くものに漂っている「地方都市の空気」は「リアル」だ。「リアル」「リアル」って「リアル」を連発するのも我ながら語彙が貧弱だが、「リアル」なものは「リアル」だ。実は、この作品を読んだ直後、婆さんの法事で帰省したんだけど、町一番の商店街に行ってみたら殆どの店がシャッターを閉ざしてるんだよね。こんな感じ。 誰も歩いていないし、シャッターが閉まってるどころか店そのものが無くなって空き地になってるところも目立ったし、見ているだけで心の底が冷え冷えてしてくる。それが佐藤友哉描くところの「地方都市の光景」と心の中で重なってやりきれない気持ちになった。首都圏に住んでるとなかなか気がつかないけど、長引く不況の影響で、地方都市はどこでもこんなもんらしい。それが「日本の今の現実」ね。その意味でも佐藤友哉は間違いなく「今」の「リアル」を生きてる。 ・・・で、最近、東京に移り住んできたらしいけれど、一体どうするんだろう? 彼の作品の舞台が首都圏に移ったとき、そこに漂う「空気」はどんな風に変化するのだろう? そこが読んでみたい。佐藤友哉は首都圏にあっても佐藤友哉であり続けるのだろうか?

ふと気がついたら異様に長くなってしまった。
以下次号、とやると結局は続かず放り投げてしまうことになりそうなので、以下、勢いでできるだけ簡単に書いておく。

ファウスト」新人賞募集
ある意味で一番面白かった。「80年生まれ以降限定」という応募資格が凄い。当然色々なところで反撥を招いているようだが、東浩紀「真に受けるのは純真すぎる。やる気があるヤツは経歴詐称してどんどん応募しろ」と煽ったので面白くなってきた。経歴詐称の原稿が入選してしまったら面白いだろうな。きっとそんなことは起こらないだろうけれど、ちょっと期待したりして・・・
その他の執筆陣について
上遠野浩平東浩紀斎藤環森川嘉一郎笠井潔。この辺りのラインナップは好きです。この調子でどんどんやって欲しい。 ただ、上遠野浩平ピンク・フロイドのアルバム・レビューでお茶を濁していたけど、これは許せん! 次回こそ小説です、小説。あんまり表には出ないけど、本当はこの人ほど哀しく絶望的な小説を書く人はいません。その悲しみと絶望は「ファウスト」創刊号の巻頭を飾った三人の作家にも通じるものがあると思う。 それから、ゲームと小説のかかわりを追求するなら、あなた、冲方丁は絶対でしょう。そう、 冲方丁です、冲方丁! 次号登場を期待してます。 「下妻物語」を書いた嶽本野ばらも好きな作家なのだけど、やっぱり、この人は「ファウスト」とは関係ないか・・・ ダメか・・・
イラストについて
「闘うイラストーリー・ノベル・マガジン」と銘打っているくらいで、イラストには力を入れてるみたい。確かに、舞城・佐藤・西尾の各作品に付いていたイラストは好かった。コミックは好きなくせに巷に氾濫する「アニメ絵」の大部分が生理的に嫌いという困った「体質」なのだけど、この絵は厭じゃない。まず、舞城が自分の作品に自分自身であんな絵をつけたこと自体がかっこいい。佐藤・西尾に付いていた絵も、一見巷に氾濫する「アニメ絵」と似たような絵なのだけど、やっぱりどこかが違う。「絵」ってやっぱり自分が実際に見たものから自分なりにアレンジして「絵」に作り上げてゆくのが本当だ。たとえば肉体。結果としてどんな体型にデフォルメしようが、それは「現実の肉体」に対する「自分の解釈」であるべきなんだよ。「アニメ絵」が厭なのは、そんな根源的な過程を省略して、いきなり他の「アニメ絵」の模倣から始まり(始まるだけならまだいいが)結局それだけに終わってしまっているものが多いからだ・・・ 説明できないけど、そんな絵って、直感的に分かる。なにか偽物っぽくて、「肉体」としての「実在感」がない。・・・で、鬼頭莫宏西村キヌもそんな絵とはちょっと違う。自分自身の「根」を持った絵だと思う。
清涼院流水スーパーインタビュー
最後に気になること挙げておく。このインタビューばかりは越えてはならない一線を越えてしまったような気がする。いくら清涼院流水が作家として素晴らしく、編集長が編集者として有能であるというのが「事実」であるとしても、それを互いに褒め合っていたらねぇ・・・ そんなことばかりやっていると人間はいつか堕落する。全体としても内輪の楽屋落ちみたいものが目立って、気になる。そういうのって、マスターベーションっぽくってカッコ悪いと思うぞ!

・・・と、くどくどと書いてきたけど、要するに、次号も読むぞ!

以上。