「バカの壁」とソシュール

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

家の中に養老孟司の「バカの壁」(新潮新書2003.4.10)が転がっていた(家人が誰かから借りてきた)のでついつい読んでしまう。
で、へんてこなソシュールの引用が出てきたので驚いた。


・・・プラトンから一気に現代に話は飛びますが、言語学の中でそれを指摘したのが、ソシュールシニフィアンシニフィエという概念です。
ソシュールによると「言葉が意味してるもの」(シニフィアン)と、「言葉によって意味されているもの」(シニフィエ)、という風にそれぞれが説明されています。この表現はわかったようなわからないような物言いです。実際、ソシュールは難解だとされています。
が、これまでの説明の流れでいえば、「意味しているもの」は頭の中のリンゴで、「意味されるもの」は本当に机の上にあるリンゴだと考えればよい。・・・(76頁)
よくないよ、先生、それはよくない!
ソシュールを少し齧ったことがある人なら誰でも知ってるだろうけれど、「意味されるもの」だって「頭の中のリンゴ」なんだよね、ソシュールに言わせれば。

ソシュール自身はこう言っていた(・・・らしい)。


・・・もっと極端な例を挙げよう。≪chien(犬)≫という語は、≪loup(狼)≫なる語が存在しない限り、狼をも指すであろう。このように、語は体系に依存している。孤立した記号というものはないのである。・・・(学生の講義ノートより。丸山圭三郎ソシュールの思想」1981.07.15岩波書店96ページ)
丸山圭三郎がこれをもっと噛み砕いて、日本語の例に即して、説明している。

・・・これを私はよく、箱の中に入っている饅頭と、同じ大きさの箱の中に押し込められている風船という喩え方をしています(左図参照)。その風船はただの風船ではなくて、圧搾空気が入っている風船と考えてください。そうしますと、饅頭の場合はその中から一つ取り出して箱の外においても、当然そこに穴があくだけで箱の中の他の関係は変わらないわけです。箱の外に取り出した饅頭自体も一定の大きさ、一定の実体を持っているわけです。ところが技術的に可能かどうかという問題はさておき、圧搾空気をつめた風船の場合は、箱の中でしか風船の大きさはないわけです。もしその中の風船を一つ外に出すと、当然ながらパンクして存在しなくなってしまうわけですね。そこで残した穴もそのままであるわけでなくて、緊張関係にあってひしめき合っているわけですから、あとの風船が全部ふくれあがって空隙を埋めてしまいます。これがソシュールの言いたかった体系でして、ここの項の大きさというものはもともとないわけです。あるのは隣接諸項、他との関係によってしか出てこないもの。・・・(丸山圭三郎「文化記号学の可能性」1983.5.20日本放送出版協会8〜9ページ)
引用文中に「左図参照」とあるのは、四角い箱の中にぎっしりと隙間なく詰め込まれた四つの圧搾空気入りの風船の図だ。そのそれぞれに「犬」「野犬」「山犬」「狼」と書かれている。このうちの「狼」と書かれた風船を取り去ると、「山犬」と書かれた風船が膨れ上がって、空いた間隙を埋めてしまう。「狼」と書かれた風船は箱の外に取り出されると膨れ上がって破裂し、消滅してしまう。つまり、「狼」という言葉を取り上げられた人間にとっては山にいる犬は全て「山犬」になってしまう。実際、動物学的事実として山には「犬」と「狼」が存在しているのだとしても、彼はその二つを異種の動物として区別することはできなくなってしまう。

結局、ソシュールが暴き出したのは、言葉が指し示す「もの」は、そこに在る「物」ではなく、頭の中にある観念である、ということだ。「リンゴ」という「意味するもの」によって「意味されるもの」は頭の中にある「リンゴ」という観念であって、「本当に机の上にあるリンゴ」ではない。
これはソシュール理解の基本中の基本であって、これを理解しなくてはソシュールを理解したことにはならないはずだ。
「これまでの説明の流れでいえば」という言葉によって巧く逃げおおせたつもりでいるのかもしれないが、ソシュールの「意味するもの」と「意味されるもの」の説明としては、これはあまりにも不適切だ。というよりも、はっきり言って間違っている
これがよく売れている「一般向け」の本の中でしでかした間違いだけに余計罪が重い。おかげでまた多くの人が「意味するもの」と「意味されるもの」の観念を間違って理解してしまうのだ。世のまじめな「ソシュール研究者」達(というものがまだ生き残っているとしたら)が嘆いていることだろう。本当にこんな明々白々な誤りを指摘した人はいなかったのだろうか?
・・・いや、もう、ソシュールのことなんか気にしている人はいないのかな、この日本には・・・ああ、時代は変わったぜ・・・

▼関連リンク:北国tvにアップした同一エントリー
なぜがこちらの方が長期間に亘ってたくさんのコメントが付いた。やはり過去ログを蓄積して有効に活用する機能は北国tvの方が優れている?

《追記》
その後、今度は「文藝春秋」で「般若心経は日本の思想」と書いているのを偶々読んだ。「またかよ!」という感じで、もう、イヤになってきた。発想が豊かで面白い文章を書く人だということは確かだと思う。けど、あまりにも不注意、というか、その反面で、物事をきちんと真面目に考えないいい加減な人であるように思えてくる。もっと真面目に勉強しろよな!(もうお気づきのことかと思いますが、A型です、私。養老先生はB型? え? 血液型と性格の関連性には科学的根拠が無い?)(2006.01.15)