特色あるデビューの道

かつて女性のマンガ家というものは、ほぼ例外なく「少女マンガ家」であり、中学か高校時代ぐらいから投稿を始め、高校卒業とともに上京してデビュー、特定出版社のお抱え作家としてキャリアを積み重ねて行くというパターンが典型的だったと思いますが、岡崎の経歴はそれとはかなり違っています。

まず、目を惹くのはデビューした場所が男性誌であったということ。それも、はっきり言ってしまえば自販機向けのエロ漫画雑誌であったということです。

岡崎といえども、最初からそんな道を目指していたわけではない。下北沢の理髪店の長女として生まれた彼女は店に置かれたマンガ雑誌の類をむさぼり読んで育ち、長ずるに従ってごく自然にマンガ家になりたいという気持ちを抱いたようです。高校一年生(1979年15歳)の時には白泉社に初の投稿をしています。しかし、本人の大きな期待にもかかわらず、あっさりと没にされ、早々と断筆。以後、テキトーな憶測ですが、流行のファッションと音楽を追いかけてヘラヘラと過ごしはじめました。

次に、「ポンプ」の常連投稿者時代というのがありました。「ポンプ」というのは、当時発行されていた投稿雑誌です。紙面のすべてが読者から投稿された雑文・イラスト・写真等で埋め尽くされている。今で言えば同じ趣味の仲間が集まるネットの掲示板を印刷メディアで運営していたという感じでしょうか… 岡崎は、そんな場所に、イラスト混じりのエッセイのようなものを投稿して、人気者になっていたようです。他にも仲間内の雑文集に表紙のイラストを描いたりと、それなりに楽しく過ごしていたことが伺えます。

東京ガールズブラボー」に述べられていることを「事実」であると仮定するなら、そうした仲間の一人がエロ漫画雑誌「漫画ブリッコ」の編集に居て、その伝手で、高校生の頃から(?)カットを書き始めたということのなるのですが、それが事実かどうかは分かりません。とにかく、1983年6月号に「ひっばーじん倶楽部」で実質的な商業誌デビューを果たしたということだけは確かです。作品の中では高校生を自称していたようですが、岡崎京子が19歳、短大の二年生の時のことです。

ここで強調しておきたいことは、彼女はプロとして出版社に養成された作家ではないということです。趣味の延長でイラスト・エッセイを描いているうちに、何となく商業誌にデビューして、何となく漫画家になってしまった、という感じ。もっとも当時「漫画ブリッコ」の編集長であった大塚英志の証言によれば、プロのマンガ描きになりたいという意志は人一倍強かったのだそうですが… いずれにせよ、彼女が既成のプロ作家養成コースから外れたところで出発したということ、それ故に、既成の枠から外れたある意味で自由な作風を育てていくことが可能だったのだということは、大切なことであるように思えます。