東浩紀「メタと動物化と郵便的世界」

やっぱり東浩紀は面白いと思った。「hazuma」
(以下省略・抜粋して引用。「・・・」部分は引用者による省略。太字強調は引用者による)

山田正紀さんに『神狩り』という小説がありますが、そこに確か、「人間は関係代名詞を7つあたりまでしか重ねられない」という台詞があります・・・。これそのものは山田さんが思いつきで書いたものらしいのですが、けっこう本質をついているような気がします。実際、認知科学で似たような実験がある、という話を読んだことがあります(・・・確か「チャンク」の数がどうの、という実験です)。

僕は昔からこの考えが気にかかっています。人間は、確かに情報を外部化(・・・すれば)、いくらでも階層的な思考を展開することができる。しかし、情報の適切な外部化ができない場合は、あまり複雑なメタゲーム(カギカッコの重複)には耐えられないのではないか。つまりは、「彼は……と言った」とか「彼は「彼は……と言った」と言った」とかは頭の中で再現できるのかもしれないけれど、「彼は「彼は「彼は……と言った」と言った」と言った」あたりからどうも処理できなくなってくるのではないか。そして、この限界は、僕たちの生活やコミュニケーションの様式をかなりのていど決めているのではないか。

[中略]

人間社会は、もともと伝言ゲームでできています(・・・)。つまり、「彼は「彼は「彼は……と言った」と言った」と言った」といったことの繰り返しで、遠くの情報を手に入れる、というのが人間の基本的な行動様式なわけです。

近代社会が作り出した「マスメディア」は、そのような伝言ゲームを集約する機能を備えていました。つまり、Aが言った噂話、Bが言った噂話、Cが言った噂話……をすべて集約し、いちど「新聞が言った」「テレビが言った」という単一の発信者を通過させ、読者/視聴者に送り届ける機能をもったわけです。

僕の考えでは、近代社会においてアイロニズムが人々に共有されたのは、まさにこのメディアの集約過程、言い換えれば伝言ゲームの停止過程があったからです。人間は二階のメタゲームぐらいは脳内で処理できる。だから、「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだ」という回路を働かすことはできるわけです。ここにこそ、メディア論者が注目してきたような、情報の送り手と受け手の相互依存関係が生まれます。

しかし、ネットワーク社会の誕生はその集約過程を内側から崩壊させてしまった。僕たちをいま取り巻いているのは、「……とテレビが言っていた」だけではなく、「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだと某が言っていた」「「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだと某が言っていた」という発言こそがツリでしょう」「「「「……とテレビが言っていた」が、しかしそれはマユツバだと某が言っていた」という発言こそがツリでしょう」というシニカルなのも正直どうかと思うよ」といった無限のメタゲーム/伝言ゲームの囁きであり、このような状態では、もはや何を主張してもだれかよりはメタレベルだし、他方ほかのだれかにとってはネタでしかない。そして、このような混乱した情報環境においては、結局のところひとは動物的に生きるしかないのだし、実際生きている、というのが僕の考えなのです。

[後略]

こうしたことが社会の中で実際に起こっているのかどうかは分からない(と思う)。しかしこんなメカニズム(?)が社会のあり方に影響を及ぼしているかもしれないという考え方には、何かゾクゾクするような興奮を覚えて、惹かれてしまう。


ちなみに私は、自分がパソコンを使い始めた頃、エディターのカット&ペースト機能が物珍しくてこんな悪戯書きをして遊んでいたことを思い出してしまいました。

僕は彼女を愛する
僕は彼女を愛する僕を愛する
僕は彼女を愛する僕を愛する僕を愛する
僕は彼女を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する
僕は彼女を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する
僕は彼女を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する
僕は彼女を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する
僕は彼女を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する
僕は彼女を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する僕を愛する