東浩紀による「ファウスト」総括

ライトノベルブームと『ファウスト』の行方
商業的には成功したものの、皮相な「ブーム」に終わらせてはならない、道はまだ半ば…ということか。
個人的な実感として、本当の意味で可能性を感じられるのは上遠野浩平西尾維新だけなんだけど… それでもいいのさ、二人もいれば。
元SFオタクとして言わせてもらえば、かつてのニューウェーブ運動だって結局J・G・バラード一人だったし、サイバーパンクだってウィリアム・ギブスンだけだった…
でも確かに、ライトノベルに関しては、上遠野浩平西尾維新の何がどう素晴らしいのか、誰もが納得できるような…というのは無理だとしても、広く一般的に受け入れらるような共通認識がまだ形成されていないような気がする。またもや個人的な実感を持ち出せば、彼らの共通項は「社会への絶望」であるように思える。ただ二人とも自分たちを蝕んでいるものが「絶望」であることに気付いていないのだけど。それはまるで水の中で生まれ水の中でその一生を終える魚が自らを取り巻いている「水」の「存在」に気付けないでいるようなものだ。「絶望」の中でものごころついた彼らには「絶望」というものが自分たちに常につきまとっているが故に「絶望」の「存在」に気づけない。「絶望」というものが「希望」が存在しない状態であるとするなら、彼らは魚たちより更に一層「不利」な立場にいるのかもしれない。何事であれそれが始めから「欠落」していたものなのであれば、「それ」が「欠落」しているということを認識すること自体が不可能だからだ。それでも上遠野浩平は時折得体の知れない憤激に駆られて「ブギーポップ」に変身したりする。けれども、西尾維新になると、もう、そんなこともない。「病」は更に深い。
…というような「読み方」は東浩紀の問題の立て方とはかなり遠いものかもしれないけど…