西尾維新「戯言シリーズ」完結に思う

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社ノベルス)クビツリハイスクール 戯言遣いの弟子 (講談社ノベルス)サイコロジカル(上) 兎吊木垓輔の戯言殺し (講談社ノベルス)サイコロジカル(下) 曳かれ者の小唄 (講談社ノベルス)ヒトクイマジカル 殺戮奇術の匂宮兄妹 (講談社ノベルス)ネコソギラジカル (上) 十三階段 (講談社ノベルス)ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種 (講談社ノベルス)ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)

2002年の「クビキリサイクル」から始まった「戯言シリーズ」が約4年*1の歳月と9巻の巻数を費やして今ここにようやく完結した。
あの腰砕けともいうべき「ありきたりのハッピー・エンド」のことはひとまず置いておいて、まずはこの記念碑的なシリーズの完結を祝いたい。決着の付け方はともかくとして、このシリーズが、その中盤においては紛れもない傑作であったことは事実だ。


個人的には「クビシメロマンチストクビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社ノベルス)の衝撃がいまだに忘れがたい。
葵井巫女子が学食で話しかけてきたとき、これはヤバイと思った。こういう天然を装ったハイテンション女に限って内面に裏腹な「ドロドロの地獄」を抱えているものだ。「気をつけろ、いーちゃん!」とページをめくりながら心の中でつぶやいたけれども、その後の展開は周知のように悲惨きわまりないものだった。主人公のいーちゃんが地獄を見たことは言うまでもない。実に全く、葵井巫女子こそ、我らの時代の永遠のヒロイン像にちがいない。「おぞましい」とたまたま見かけたあるホームページには感想が書きつづってあった。「身の毛もよだつ」「ここにはヒューマニズムも、理念も、道徳もない。虚無そのもの。」*2
その感じ方は全く正しい。それこそが我々を取り巻く今の「現実」なのだ。岡崎京子だったら「平坦な戦場」と言ったかどうか知らないが、我々は相変わらず「そこ」にいる。あれからもう十年以上経ったというのに、どちらを見ても見渡す限り「平坦」な荒野が広がっているだけで、自分たちがたどり着くべき目的地など、どこにも見えない…


理屈を語るようでいながら実は感情を奏でる饒舌な文体は、西尾維新の資質が紛れもない「文学」にあることを示している。だからといって「ニンギョウがニンギョウ」ニンギョウがニンギョウ (講談社ノベルス)のような「文学趣味」に走った作品を書いてもらいたいとは思わない。むしろ西尾自身が尊敬する先達として名を挙げている上遠野浩平のように「エンターテイメント」の形式に則った作品を書き続けて欲しい。そうした「拘束」を自らに課しても西尾維新の「文学性」は自然と作品の中ににじみ出てくるだろう。そのことによって、出版産業界を呪縛する「ミステリー」や「エンターテイメント」といった「ジャンル分け」が、「市場細分化」という小手先のマーケティング・テクニックと末世的な「文学に対するニヒリズム」が渾然一体となって生み出した幻想に過ぎないことを世の人々に思い知らせて欲しい。自分は信じているのだが、やはりそこにあるのは只一つもの、すなわち「文学」だけなのだ。
西尾維新ならそうしたことを身をもって示すことが可能であると、自分は信じたい。



更新履歴:2005.12.10感想(http://www4.ocn.ne.jp/~temp/nisi.html)等のリンク追加、2005.12.11

*1:執筆期間まで含めるとそんなもんかな?

*2:リンク先をご覧になれば分かるように「おぞましい」「身の毛もよだつ」「ここにはヒューマニズムも、理念も、道徳もない。虚無そのもの」等のコトバは実際には使われていません。弁解させていただければ、でも、要するに、論旨としてはそういうことなのです。このエントリーを書いた時点で何処にあるページだったか分からなくなってしまい、記憶に頼って書いたのでこんなことになりました。伏してお詫び申し上げます。《追記》今気がついたのだけど、ここってid:kagami氏のサイトだったんだ…