第一期の時代区分と作品
先に書いたように「漫画ブリッコ」1983年6月号に「ひっばーじん倶楽部」で登場してから1988年6月に「平凡パンチ」で「ジオラマボーイ パノラマガール」の連載を終えるまでのおおよそ5年間をとりあえず第一期と考えてみます。
具体的な作品で言えば、その大部分が「バージン」「ボーイフレンド is ベター」「退屈が大好き」「TAKE IT EASY」「好き好き大嫌い」の5つの作品集に収録された約50〜60編ほどの中短編群と「セカンド・バージン」「ジオラマボーイ パノラマガール」の2長編がこの時期に属しています。
もちろん、この時代区分は絶対のものではありません。特に始まりがどこと見るべきかは、後で述べるように曖昧です。
この時代の特徴は、その(当時としては)特色あるデビューの道筋と、書き散らかされた膨大な身辺雑記的な短編群にあると言えるでしょう。
特色あるデビューの道
かつて女性のマンガ家というものは、ほぼ例外なく「少女マンガ家」であり、中学か高校時代ぐらいから投稿を始め、高校卒業とともに上京してデビュー、特定出版社のお抱え作家としてキャリアを積み重ねて行くというパターンが典型的だったと思いますが、岡崎の経歴はそれとはかなり違っています。
まず、目を惹くのはデビューした場所が男性誌であったということ。それも、はっきり言ってしまえば自販機向けのエロ漫画雑誌であったということです。
岡崎といえども、最初からそんな道を目指していたわけではない。下北沢の理髪店の長女として生まれた彼女は店に置かれたマンガ雑誌の類をむさぼり読んで育ち、長ずるに従ってごく自然にマンガ家になりたいという気持ちを抱いたようです。高校一年生(1979年15歳)の時には白泉社に初の投稿をしています。しかし、本人の大きな期待にもかかわらず、あっさりと没にされ、早々と断筆。以後、テキトーな憶測ですが、流行のファッションと音楽を追いかけてヘラヘラと過ごしはじめました。
次に、「ポンプ」の常連投稿者時代というのがありました。「ポンプ」というのは、当時発行されていた投稿雑誌です。紙面のすべてが読者から投稿された雑文・イラスト・写真等で埋め尽くされている。今で言えば同じ趣味の仲間が集まるネットの掲示板を印刷メディアで運営していたという感じでしょうか… 岡崎は、そんな場所に、イラスト混じりのエッセイのようなものを投稿して、人気者になっていたようです。他にも仲間内の雑文集に表紙のイラストを描いたりと、それなりに楽しく過ごしていたことが伺えます。
「東京ガールズブラボー」に述べられていることを「事実」であると仮定するなら、そうした仲間の一人がエロ漫画雑誌「漫画ブリッコ」の編集に居て、その伝手で、高校生の頃から(?)カットを書き始めたということのなるのですが、それが事実かどうかは分かりません。とにかく、1983年6月号に「ひっばーじん倶楽部」で実質的な商業誌デビューを果たしたということだけは確かです。作品の中では高校生を自称していたようですが、岡崎京子が19歳、短大の二年生の時のことです。
ここで強調しておきたいことは、彼女はプロとして出版社に養成された作家ではないということです。趣味の延長でイラスト・エッセイを描いているうちに、何となく商業誌にデビューして、何となく漫画家になってしまった、という感じ。もっとも当時「漫画ブリッコ」の編集長であった大塚英志の証言によれば、プロのマンガ描きになりたいという意志は人一倍強かったのだそうですが… いずれにせよ、彼女が既成のプロ作家養成コースから外れたところで出発したということ、それ故に、既成の枠から外れたある意味で自由な作風を育てていくことが可能だったのだということは、大切なことであるように思えます。
第一期作品群の特色
第二期に属する「pink」や第三期に属する「リバーズ・エッジ」「ヘルタースケルター」「うたかたの日々」等の世評の高い長編作品から入った読者がいきなりこうした初期作品を読んだら、戸惑いを覚え、おそらく、落胆することでしょう。期待したものとはあまりにも違うものを見せられるからです。こうした長編作品の壮大な世界とは異なり、ここにあるのはあくまで日常の一こまを切り取ったような断片的な小世界にすぎません。大部分が10枚前後の小品。所々でキラキラと光るものが感じられるときもあるが、まだまだ「作品」にはなり切れていないような印象を否めない。
いくつかの作品例を挙げておきます。
●「図鑑少女」
●「CURRY RICE」
●「「No Future Boy No Future Girl」
●「ウォーキン・オン・サンデー」
●「ハワイ・アラスカ」