鈴木いづみ・岡崎京子・後期資本主義


鈴木いづみセカンド・コレクション〈1〉 短編小説集 ペリカンホテル

鈴木いづみセカンド・コレクション〈1〉 短編小説集 ペリカンホテル

鈴木いづみセカンド・コレクション」の第一巻 isbn:4892570397 がいつの間にか本屋の店頭に並んでいた。解説がまたもや岡崎京子がらみ。筆者は高橋源一郎。共感するところが多いので、(実は自分の岡崎京子観にとって都合のいい部分だけ抜き出して)メモしておく。

今年の手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞したのは岡崎京子の『ヘルタースケルター』だった。
80年代から90年代前半を駆け抜けた、この天才女性マンガ家は、不幸にも交通事故に遭い、最新作を読むことができなくなって久しい。美貌を手に入れるため、全身に整形を施すアイドルの悲劇を描いた『ヘルタースケルター』も、もちろん、事故以前の作品だ。
手塚治虫によって文化にまで高められたマンガという表現は、おそらく岡崎京子によってはじめて「現代に生きる女の子」の存在の悲しみをリアルに描くところまで到達したのだが、ぼくは、彼女のマンガを読む度に、でも、この女の子はどこかで見たことがあると思った。そう、それは、鈴木いづみの作品の中にいた女の子ではなかったろうか。
…中略…
鈴木いづみが書こうとしたもの、そして、岡崎京子金原ひとみや、無数の、彼女たちのような女の子によって引き継がれたもの。それは何か。
ひとことでいうなら、それは「後期資本主義社会に生きる女の子の悲しみ」である。
…中略…
「後期資本主義」とは、直接的な「抑圧」が無くなったかのように見える世界だ。豊かな社会の到来で、「女」は解放された、あるいは、解放されたかのごとき錯覚が訪れた。職業でも、セックスでも、結婚でも、遊びでも、「女」が「男」と同じ権利を主張できるようになった時、「抑圧」と戦うことと表現が結びついていた「女」たちは新しい事態を迎えることになったのである。
もっと簡単にいおう。「後期資本主義]とは、夜遅くまで、女の子が遊べる社会のことだ。彼女たちは、同じように自由な男の子たちと、深夜の都会を徘徊する。彼女たちの前には、果てしない快楽の時間が待ち受けている。「抑圧」よさようなら。「自由」万歳!
では、「女」は、ついに「抑圧」から脱し、自由な世界にたどり着いたのか。そうではない。やっと見つけた、その場所は、新しい苦しみの生まれる世界だったのである。
…中略…
鈴木いづみの作品は、一つのことを繰り返し、我々に伝えようとする。
「わたしは、抑圧され続けて、ついに自分が何なのか分からなくなってしまった母親の下を離れて、自由な世界に飛び出したの。そしたら、どうでしょう。そこにいたのは、バカな男ばかりだったの!」
彼女が飛び出した世界、それを、我々は「後期資本主義社会」と呼んでいる。そこには自由があると、我々は信じた。だが、それはなんと苦い自由だったろう。同じ権利を有する、完全に平等な、「弟」のような「男」と快楽を共有しながら、「女の子」は、突然、自分が深い絶望の淵にいることに気づくのである。
そこにも求めているものはなかった。そして、そこから逃れていける場所は、もう、どこにもないのである。