「ヨコハマ買い出し紀行」雑感 −或いは母胎回帰の風景画−

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前書き
或るホームページを読んだことがきっかけで、自分にとっては全く未知の作家の作品を読んでみる気になりました。
絵は、特に人物が、余り好みではないのですが、印象深い作品です。もっと正直に言えば、厭だと思う面が(絵以外にも)数多くあるにもかかわらず、面白いなと思ってしまいました…不覚にも。
検索エンジンで探してみると、関連ページも、相当数、存在しています。結構人気があるようですね。
しかしながら、この作品の何が「快感」をもたらすのか、自覚していている人は必ずしも多くないような気がして物足りなさを覚えました。
そんなわけで、少々挑発的な気分をこめて書いてみた「読書感想文」です。
羊水に溺れる文明
真っ直ぐに延びた道がそのまま海に呑み込まれて行く。
ひたひたと押し寄せてきた海は低地を飲み込んでしまったらしく、海面の所々に電柱やバス停の標識が突き出し、遠くには水没した建物も見える。
そんな光景が目の前に広がったとき(第一巻十八ページ)、三浦半島の片田舎をうろついていたはずの我々は、いつの間にか異世界に迷い込んでいたことを知る。

恐ろしく趣を異とするものの、ここには間違いなく、J・G・バラードの長編小説「沈んだ世界」沈んだ世界 (創元SF文庫)と同じ主題が語られている。
海水は羊水に他ならない。
文明は羊水の中に呑み込まれて消え去り、人々は退行の中でまどろみ始める。

「夕凪の時代」なのだと作者は言う。
「時代の黄昏がこんなにゆったりのんびりと来るものだったなんて」と主人公はつぶやく。
なんとでも言うがいい。
どう巧みに言い換えようと、それは文明の衰退であり、原始への退行であり、「夜」への序曲であり、詰まるところは「この世の終わり」なのだ。
さあ、「お祭り」は終わった。
疲れ果てた身体を横たえ、優しい忘却の愛撫に身を委ねよう。
異化された風景
我々は異形の「横浜」を目の当たりにする。
水没したビルや、丘の上に広がる鄙びた街並みの向こうに、ランドマークタワーが聳え立つ。
或いは、藤沢から江ノ島へと相模湾のカーブに沿って走る国道134号線は砂に埋もれている。
見知らぬ風景の中にはめ込まれた見慣れた風景の断片がかえってその違和感を際だたせる。よく見知っていたはずのこの世界が、実は全く異質な世界に変わってしまったことを、我々は思い知らされる。
風景への感受性
他の多くのコミックの中で、この作品を特色有るものにしているものは、おそらく、「風景」に対する感受性だ。
それ程多くの「風景」がこの作品には描き込まれている。
緩やかに起伏する大地に沿ってうねりながら続く道。アスファルトの舗装の隙間から生えてくる雑草。水平線の向こうに湧き起こる積乱雲。波の立たない入り江の奥の静かな海面。高台から見下ろした海。海の向こうに浮かび上がる房総半島の影。夕方になると空に繰り広げられる雲と光の饗宴。
それらは登場人物達の背景として添えられたものではなく、作品の主題そのものなのだ。時に登場人物は風景を描くための「視点」としてだけその存在を許される。
土地への執着
実在する土地への執着こそが、そうした「風景への感受性」を育む。
たとえ最終的に描かれたのが「異世界」であり「想像上の風景」であったとしても、そんな風景に対する想像力を生み出したのは、実在する風景に注ぎ続けられた執拗なまなざしだ。
我々を驚愕させるような想像力は、常に、現実に対する執念深い観察から生まれる。
実際、ここに描かれた風景の「要素」の一つ一つは、三浦半島に実在するものだ。
三浦半島
確かに三浦半島には一つの風土があるような気がする。
特にその西海岸には、独特の空気が流れていて、我々を魅了するようだ。
三浦半島の風景に関する個人的な覚書。

三崎口駅のプラットホームの端に立って、線路の延びて行く先を見やった。季節はおそらく秋だったような気がする。地面は緩やかに大きく起伏し、そのままなだらかな山影へと続いて行く。その上には穏やかな水色の空が広がり、うららかな陽射しがまぶしいほどにたっぷりと降り注いで来る。

冬のある日、この三崎口から葉山まで歩いたことがある。
のんびり歩いて五時間ほどの道のりだ。冬でも風は無く空はうららかに晴れ上がっていた。途中のコンビニで買った肉まんをパクついたり、茶を飲んだりしながら、ひとけのない田舎道をタラタラと歩いて行くと、やがて、陸上自衛隊武山駐屯地の塀が延々と一キロ以上にも渡って続いているのに出くわして呆れ返ることになる。第一巻の十八ページで主人公が広げる地図には描かれているのはこの一帯だ。我々が作品の中で初めて目にする水没した風景の下にはこの自衛隊の駐屯地が沈んでいたのだ。
驚いたのは秋谷の海岸にたどり着いたときのことだった。
突然目の前にきらきら輝く海が広がる。光の洪水だ。
国道134号線はここから長者ガ崎まで海際の崖の縁を走る。崖の下には狭い石だらけの浜辺があって白い波が打ち寄せていた。
僕は、海の向こうに傾いて行く太陽を眺めながら、殆ど恍惚として歩き続けた。

未分化な性への回帰
作品の中に散りばめられた性的な要素については余り触れたくないような気がする。性的であると言うこと自体が厭だというのではない。ただその嗜好性に関して、どうにも共感しがたいものを感じてしまうのだ。一言でいえば歯切れの悪い退嬰的嗜好性というのだろうか・・・ ただ作品世界の在り方からすれば、そうあるべきなのかもしれないが・・・
無尽蔵な時間への逃亡
主人公はロボット。
ロボットと言いながら、泣きも笑いもすれば、ものを飲み食いし、挙げ句の果てには酒に酔って踊り回る。生身の人間と何処が違うのだろうと首を傾げたくなるが、ただ一つ、歳だけは取らない。確かに永遠の中に澱む黄昏の世界の住人にはロボットがふさわしいかもしれない。
主人公はつぶやく。「わたしには時間はいくらでもあるからね」
終末はそう遠くない
もっとも驚くべきことは我々が何もしなかったということ。
いや、何もしなかったどころか、鍵を握る数々の局面で最悪の選択を繰り返して、自ら事態を悪化させて来た。
90年代の初頭から始まったバブル経済の崩壊は留まるところを知らない。既に相当な年月が経過しているのに、事態は終息に向かうどころか、97年末に顕在化し始めた金融危機の中で、いよいよ厳しさを増して行く。
この社会に住む誰もが「終末はそう遠くない」ことを予感しているはずだ。
そうした時代の気分が、作者や読者が意識する以上に、この作品には色濃く反映されている。
限りない退行への誘惑
逃れられそうもない「死」が迫ってくるのを目の当たりにしたとき、我々はどうしたらいいのだろう?
一つの答えは、それを「救済」として捉え身を委ねてしまうことだ。

我々はおそらく心の深いところで疲弊している。
バブル経済の中でさんざん玩ばれたあげく、共産圏の崩壊後は、ますます生活の細部にまで浸透してくるようになった市場原理の中で隅々まで隈無く「人間性」を否定されようとしている。
「お祭り」の終焉は我々自身の望むところだったのではないだろうか?
繰り返されてきた「最悪の選択」は誤りではなかったのかもしれない。
ひょっとしたら、死は我々に迫ってくるのではなく、我々の方から死に歩み寄っているのかもしれない。

この作品は「死」を目前にした我々がすがるトランキライザーであり、阿片であり、甘美な毒薬だ。
地球が温暖化し海面が十メートル上昇したとき、世界がただ静かに終末を受け入れたはずはない。たとえその上昇速度が穏やかなものであったとしても、産業は壊滅し、経済は混乱を極め、餓えが世界を襲い、多くの人命が苦しみの中で失われただろう。
しかし、それがこの作品の中で語られることはない。
と言うよりも、それを語ることを「拒否」することこそがこの作品の精神なのだ。
人々はただ静かに「終末」を受け入れる。不断の進歩を押しつけてくる「明日」を失ったとき、人々は「永遠」の中に解放され、初めて心からの安らぎを手に入れる。
第四巻の最後の頁で、主人公は月琴をつま弾きながら歌う。
よろしかったら
一緒にうたってくださいね
暗くなるまでには
まだしばらくあります

いちばんおいしい時間です




1998.10.03新規作成

1998.10.29部分改訂

2005.12.04デザイン変更

2005.12.05ブログへ再掲載