オカマといえば池上永一「シャングリ・ラ」(2005.12.05改訂)

シャングリ・ラ

シャングリ・ラ

地球温暖化でジャングルと化した東京」とか「『経済炭素』を巡ってネットワーク上で繰り広げられる過激な投機ゲーム」とか、その他諸々の盛りだくさんな「設定」*1と、それからマックス・エルンストの「雨後のヨーロッパ」をあしらったブック・カバーにそそられて、まぁ、多分、それほどには面白くないんだろうな、と覚悟を決めて読み始めた本作であったが…やっぱり、「設定」ほどには面白くはなかった。けれども覚悟していたよりは好かったし、何よりもこんな超弩級の「設定」に挑む作者の向こう見ずさにそこはかとなき好意を覚えてしまったので、感想をいくつか…


<<警告:以下ネタバレ有り>>

天皇
いきなりネタをばらせば結局のところ物語は「天皇制」に収束してしまう。
最初変だと思ったのだ。これだけ「設定」を念入りに並べたのに「これ」がスッポリ抜け落ちてるのはおかしい。でも、物語が始まってしばらくしたら、出てきましたよ、やっぱり…
「東京」の本質を求めて彷徨い歩くうちに期せずして「皇居の森」と「天皇制」にたどり着いてしまうというのは今までも多くの人々が歩んできた道だ。「表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)」のロラン・バルトそうなら、「アースダイバー」の中沢新一そうだった。 池上永一は彼らを「引用」したのではない。自分の足を使って彷徨うことによって自ら「再発見」したのだ。 「沖縄人」であるが故に戦後の天皇タブーのバイアスから自由であり得た自分の目から見れば「日本」が「君主国」であることは明白である、あなた達はこの事実からいつまで目を逸らし続けているのだ、と池上永一は「あとがき」に挑戦的な口調で書き記す。 岡崎京子に共感を覚える「モダニスト*2である自分には決して受け入れることの出来ない主張であるが、池上永一が謂わば「外国人」として客観的に下した判定の「重さ」を受け止めないわけにはいかない。 池上永一は意地が悪い。 全ての日本人を、「モダニズム」によって否定されたはずの「天皇を頂点とする階級社会」の中に配置し、こうされることによって日本人はようやく安定と平和を得ることが出来るのだと、さり気なく付け加える。そして終いに日本の民草は甦った神武天皇に率いられ約束の新世界を目ざすのだ… こうまで書かれて誰か怒るやつはいないのか? たかが荒唐無稽のオカルト小説*3にいちいち目くじらを立てる必要はない? イヤ、池上永一をなめてはいけない。おそらく池上永一自身は自分が何を書いているのか無自覚な類の作家なのだが、しかし彼の作家本能は本質を突いてくる。我々の日常の慣習の中に埋もれている、或いは日常見慣れているが故に却ってその存在に気づけない「真実」を意識することなく次々と掘り起こしてし、無造作に我々の前に投げ出す。それらは体系化もされていなければ、掘り下げられてもいないが故に、「物語」を推進させるための「小道具(ガジェット)」に見えてしまう。確かに一面でそれらは「ガジェット」に他ならないのだが、それと同時に、それらは我々が目を背けている「事実」でもあり得るのだ。
▼炭素経済
話はいきなり変わるが、経済学を学び始めた頃、早く教えてもらいたくてワクワクしていた事柄があった。つまり「経済的な金銭上の収支」と「物理的なエネルギーの収支」の「一致」はどのような「仕組み」によって保証されているのか?ということだ。
…結論を先に言ってしまえば、そんな「仕組み」は存在していない。
つまりこれは「世界」が「経済的に完全に正しく」運営されていたとしても何時かは「破綻」するかもしれないということを意味している。その「破綻」は一見「経済的」或いは「社会的」なものに見えるかもしれないが、実は「エネルギー」や「エントロピー」にかかわる「自然界」の「物理的制約」、すなわち広い意味での「環境問題」から引き起こされたものであるはずだ。*4
その意味で「市場経済」の原則が社会の隅々まで浸透し、かつては「慣習」や「道徳」や「権威」によって律されていた領域までが「経済原理」に従って営まれるようになって行くこと*5に対して「何となく不安を抱く」と言うことは「正しい」。
作中でもAIによって盲目的に駆動される「炭素経済」が世界を破綻に追い込んでゆく。その設定自体に目新しさは無いのだが、ここにも我々の今にとって真に重要な問題は何かと言うことに関する作者の作家的直観が「正しく」発動されているように思える。ただ、「炭素経済」というものが謂わば「異常」な「病める経済」であるわけではないということを注釈として指摘しておきたい。所謂「普通の(正常な?)経済」と「炭素経済」の間に本質的な差異はない。
▼性倒錯者
池上永一の「作家的直観」の正しさを信頼するのなら、本作では大活躍する「オカマ」の存在にも何か意味があるということになるはずなのだが…私には分からなかった。オカマがベラベラ喋って寒々とした掛け合い漫才をしなかったらより欠点の少ない作品になったろうとしか思えない。オカマのことを書きたいのであれば、池上永一はもっとオカマの「気持」というものを研究するべきだろうとすら思った。
こうした感想は、ひょっとしたら作品に対する理解の至らなさを露呈しているものなのかもしれないが、実際にそう感じてしまったのだから、正直にここに書き記しておく。
(2005.12.03初出、2005.12.04改稿)

*1:今風に言うと「世界観」? しかし単なる「設定」に過ぎないものに何でそんな大仰な言葉を使わなければならないのか、納得できない。

*2:岡崎京子の作品の根底に潜む「イデオロギー」は「モダニズム」だという椹木野衣の指摘は正しいと思う。「平坦な戦場でぼくらが生き延びること―岡崎京子論平坦な戦場でぼくらが生き延びること―岡崎京子論

*3:最初はSF小説風だったが、読み進めるうちに「風水オカルト小説」だったことが分かる。

*4:幼さ故に「世界」の「仕組み」を無邪気に信頼して、疑うことをまだ知らなかった自分にとってはショックな話だった。「世界」のどこかには「賢く正しい人々」がいて「世界」が「正しく」営まれるよう見守っているのだと何となく信じていたのだが、それは幼稚な思いこみに過ぎなかったのだ。こうした「世界への無条件の信頼感」の「絶対値」をそのままにして「方向」をひっくり返すと、「世界」のどこかには「悪賢くて邪悪な人々」がいて「自分たちの都合の良いように」「世界」を操っているという考え方、すなわち「陰謀論」になる。その意味で「陰謀論者」の精神構造は「幼い」ような気がするのだが…

*5:早い話が「郵政民営化」もその例の一つだ