ファウスト vol.6 感想その2

ボチボチと読み続けている。

ファウスト vol.6 SIDE―B (講談社 Mook)

ファウスト vol.6 SIDE―B (講談社 Mook)

奈須きのこ「DDD Hands」
空の境界空の境界 上 (講談社ノベルス)空の境界 下 (講談社ノベルス)よりは面白く読んだ。*1とはいうものの、登場人物の性格付けも、言動も、物語の流れも、ただひたすらに「異様」としか感じられない。謎だ。「小説」や「漫画」ではなく「ギャルゲー」を通して「物語」や「文学」を発見した「体験」がなければ理解できないのだろうか?


▼インタビュー「さらなる世界の最先端へ」
ライトノベル関連本」の氾濫について「歴史観が希薄な言説が流通している」と東浩紀が批判し、編集長の太田克史もそれに乗じて「たらいの中の人が、たらいの中で話をしている」と更に人の気持を逆なでしそうなことばで煽る。こういう戦闘的な姿勢はわりと好き。でも、やっぱり、やり過ぎに注意だよね。
尚、歴史観というか歴史意識の重要性については自分も全く同感。だけど、「大きな物語」の喪失と「小さな物語」の並立・乱立という社会的状況がライトノベルの個々の作品の構造にも反映されている*2という東浩紀の主張には納得しきれないものを覚える。*3こうしたことを論考の対象として取り上げる彼の姿勢そのものにはものすごく共感を覚えるのだけど…


▼出発点としてのグランド・ゼロ
Side-A、Side-B とも、巻頭のカラーページに編集長太田克史が撮ったグランド・ゼロ*4の写真がさり気なく紛れ込ませてある。グランド・ゼロを「新たな時代の出発点」と捕える彼の感じ方にはやはり共感を覚える。自分も同じことを感じていたからだ。しかし、同じ出発点に立ったとしても、そこから「どの方向へ向かって」歩き始めるかが問題だ。彼の向かう方向と自分の向かう方向が本当に同じなのかどうか、まだ見定められないでいる…


結局、「ファウスト」という名の「ニューライトノベル運動」とでも呼ぶべき潮流に関しては、スローガンには共感を覚えるが、その具体的な個々の主張に関しては必ずしも同意できないというのが正直な実感。でもスローガンに惹かれる限りはまだまだ「ファウスト」の今後を楽しみにしているのだけど…

*1:空の境界」は正直言って何がいいのかさっぱり分からなかった。刃物を振り回す「戦闘美少女」(参照:戦闘美少女の精神分析)に「萌え」る「感受性」を有していなかったのが敗因か? その点で、手足が無い「芋虫」状の「美少年」を、男を演じる「少女」が着替えさせるシーンの出てくる「DDD Hands」の方が、「おっ、エロだ」と理解できる分だけ取っつきやすい。オヤジ?

*2:動物化するポストモダン2補遺「ゲーム的リアリズムの誕生」を、そう理解したんだけど、誤読?

*3:そもそも「大きな物語」の喪失という東浩紀の主張そのものが、メタレベルでの「大きな物語」の「誕生」に他ならず、その意味では「大きな物語」はちっとも滅んでいないように思える… そのこと自体は彼の「現状分析」と本質的に矛盾するものだとは思わないけれど… 学問だの、宗教だの、科学だの、哲学だの、要するに人間の「知的営為」というものは本質的に「大きな物語」を目指してしまうものだよな…

*4:2001年9月11日の「全米同時多発テロ」で旅客機が突っ込んで倒壊したニューヨークのワールド・トレード・センターの跡地