冲方丁にとって「マリみて」とは何か

制度化された家族の形態をとり、美化意識を核とした「型」を持ち、自己と他者が一体となった成長と教育への意志――それが、この作品における「姉妹」のテーゼである。
こうした自己と他者をともに教育する意志の表明こそ、人物造形と人間関係を通してライトノベルが実現すべき最良のものの一つではないだろうか

冲方丁って「体育会系」だ、やっぱり。
彼がここで展開した「マリみて」論は正しい。
自分が何故「マリみて」に全く心を動かされなかったのか、その理由も、「冲方丁の『マリみて』観」に従えば、容易に説明できる。
要するに自分は「型」を「破壊」するものが好きなのだ。
「型」というものがいかに大切なものか、自分は理解しているつもりだ。冲方丁が指摘したように「自由放任」というのも「自由という(冲方丁に言わせれば厳しく苦しい)型」に子供をあてはめているだけである。「型」のないところに社会など成り立ちようがない。「型」があるからこそ「人間」はギリギリのところで「人間」でいられる… しかし同時に「型」は「生命」を抑圧する。確かに少しくらい抑圧してやった方が「生きてるっていう感じ」は鮮明になるものだが、けれども「型」にどっぷりつかりすぎると今度は「生命」を見失ってしまう。実際、自分がなんのために「生きている」のか分からなくなってしまうのだ。現実の「社会」における「型の支配」の力は強力で、世の大部分の人々(自分も含めて)は「型」の圧政の前に自分たちがなんのために生きているのか殆ど分からなくなりながら生きているのが実情だろう。*1 …だからこそ、自分は「型」を「破壊」するものが好きなのだ。「芸術」というものはそういうもんだよね。「学問」も「宗教」も「哲学」も、本来はそういうものであるはずだ。「社会」に対し「有罪」でなくてはならない。
「社会」の「型」に奉仕する「小説」は「社会」の「道具・装置」であってもはや「文学(芸術)」ではない。その意味で冲方丁謂うところの「最良のライトノベル」などには、自分はなんの興味も持てない。*2


≪付記≫
トラックバックして下さったid:hatikadukiさんへ
もちろん「型」を擁護する「文学」は普通にありますよ。むしろそういう「文学」の方が「普通」かもしれません。ただそういう種類の「文学」を「芸術」だとは「自分は認めないよ」という「個人的な思想・信条或いは趣味」を「表明」又は「表現」してみせただけですので誤解なさらないで下さい。それに対してどう思うか、或いは「文学」に何を求めるか等々は、もちろん個人の自由です。
ただし「罪と罰」に関してはちょっと一言。ドストエフスキーが生きた時代は東欧の「後進国ロシア」に西欧の「先進国」から新しい「思想」「テクノロジー」「資本主義」等々が怒濤のように押し寄せてきて「近代化」が進んだ時代です。こうした社会的状況の下で「西欧近代社会的価値観」が理想とする「個人主義」や「自由」や「合理主義」に対して「反逆」し「否定」して見せたというのがこの作品に対する「一般的な理解」だと思います。「人間の理性の絶対なんて嘘っぱちだ。ひざまずいて神に祈れ!」と叫んだドストエフスキーは「西欧的近代の理念」の立派な「破壊者」です。カッコいいぜ、ドストエフスキー!(2006.02.18)

*1:たとえば「子供のため」とか「社会のため」とか「言い訳」をしながら。しかし「生命」が十分に充実しているならそんな言い訳など必要としないはずだ。ただ生きているだけで充分。

*2:とはいうものの冲方丁の作品は好きだ。だから冲方自身は「最良のライトノベル」なんて「実現」しないで欲しいと思う。