ル・グウィン「こわれた腕環」

こわれた腕環―ゲド戦記 2

こわれた腕環―ゲド戦記 2

「影との戦い」を再読した流れで30年ぶりに再読。技術的には完璧だが、それ故にル・グウィンの作家的というか思想的限界を感じる。良くも悪くも西欧的な社会常識から一歩も出られないのだ。つまり自分的に言えばル・グウィンは「芸術家」ではないことになる。
影との戦い」に描かれた「魔法」が「科学技術」の隠喩であったことは明白だ。それは人知の及ばない闇の世界から漏れ出てきた神秘の力なのではなく、人間の知性によって自然の摂理を窮め尽くした結果獲得される技能にすぎない。ル・グウィンの描く「魔法の世界」は人間の理性が支配する合理的な世界であって、理性的なもの、或いは合理的で人間的なものに価値の中心が置かれる。この姿勢は「こわれた腕環」の中でも一貫している。原始的な闇の力に贄として捧げられた巫女が「魔法使い」であるゲドの助けを借りて「人間」としての「自己」を回復し「解放」されるというのがこの物語の骨組みだが、要するに「原始的な宗教」は「闇につながるもの」「人間的な価値を一切持たないもの」として徹底的に否定される。それはすなわち「西欧の文明人」が「原始的な社会」を眺める視線に他ならないではないか? これって、つまり、ル・グウィンはアルフレッド・クローバーの娘であって、決してレヴィ・ストロースの娘ではないということなのかなぁ…? とか言って、自分はアルフレッド・クローバーの文化人類学がどんなものなのか知らないのだけど… 或いはル・グウィンがクローバーの「不肖の娘」であるに過ぎないのかな?