佐藤亜紀のトラウマ

えー、某出版社の名前を書かなければならなくなると、無意識の抑圧で別な出版社の名前を書いてしまう大蟻食です。思ったより深刻にびょーきだな。今朝はそこの、名前がどうしても思い出せない雑誌を読んでいました。蓮實先生が書いておられたからです。

平野啓一郎芥川賞受賞がきっかけとなって、佐藤亜紀と新潮社の関係が深刻な危機に陥ったことは、知ってる人は知ってる類の、一部には有名な話だ。この日記を読んで佐藤亜紀に同情しない人はいないだろう。これはあくまで佐藤亜紀の視点から語られた状況なので、はっきり言えば、ことの真相は分からない。新潮社側には新潮社側の言い分があるのだろう。ただ、それにしてもである…、やはり「心情」としては佐藤亜紀に同情的にならざるを得ないではないか… 状況が、あまりにも、佐藤亜紀にとって辛すぎる。痛々しい。この事件によって佐藤亜紀がどれほど深く心を傷つけられたのかと思うと、戦慄を禁じ得ない。当時の自分などは「これでもうこの人は小説など書けなくなってしまうのではあるまいか?」と半ば観念してしまった。へたれな自分は、これほどの痛手から立ち直れる人がいるとは想像も出来なかったのだ…(←ダメなヤツ)
…が、しかし、佐藤亜紀は筆を折らなかった。
折らなかったどころか、「天使」天使 (文春文庫)と「雲雀」雲雀という大傑作をひっさげて復活したばかりでなく、返す刀で芸術選奨すら受賞してしまった。
何と強い人なんだろう、世の中にはこんなに精神的に強靱な人がいるのだろうかと、自分は驚嘆したのだったが、しかし、まぁ、そうだよな。そう簡単にトラウマが癒えるはずはないよね。おそらく、この人はこの先もずっとこの苦しさを抱えていかなければならないのだろう。
本当にあれはイヤな事件だったなぁ…


尚、佐藤亜紀が言及しているのは「新潮」の8月号に掲載された蓮實重彦のエッセイのこと。ラカンデリダが自分たちの「理論」を追うのに急なあまり題材として取り上げたポーの作品を何よりもまず「文学」として味わうことを忘れていると糾弾したもの。(…だと思う。多分。)最後の脚注で、デリダ論を書いた東浩紀まで叱られていた。
曰く、

…『存在論的、郵便的』(新潮社)の東浩紀は「ポーを読むラカン、それを読むデリダ。さらにそれを読むジョンソン」(105ページ)という構図をそこに見いだしているが、ここでは、東も含めて誰一人ポーをまともに読んではいないことに驚かざるをえない。…(中略)…フロイトなら読めるラカンにポーなど読めるはずがないという健全な直感の不在は、知的な風土の頽廃をまがまがしくつげてはしまいか。…

この先生の口調は、何か、「頑固じじい」の味わいがあっていいですね。



《追記》
公平を期するために平野啓一郎の反論にもリンクを張っておく。

私はここにはっきりと言っておくが、私はこれまで佐藤亜紀氏の小説を1行も読んだことがないし、また今後も読むつもりがない。佐藤亜紀氏本人についても、何の関心もない。従って、「盗作」云々は、あり得ない話である。

(2000.6.09.17追記)