平野啓一郎、6年目の反論
平野啓一郎の芥川賞受賞がきっかけとなって作家佐藤亜紀と新潮社の間に深刻な対立が持ち上がった件については既に書いたことがあるが、関係者の一人である平野啓一郎が最近になって「反論」とも言うべき文章を自分のブログに公開したので、触れておきたい。
要するに
私はここにはっきりと言っておくが、私はこれまで佐藤亜紀氏の小説を1行も読んだことがないし、また今後も読むつもりがない。佐藤亜紀氏本人についても、何の関心もない。従って、「盗作」云々は、あり得ない話である。
というのである。
はっきり言って自分は作家佐藤亜紀のファンであり、その上、「日蝕」の芥川賞受賞を当時から好意的には捉えなかった*1人間なので、どうしても佐藤亜紀に同情的になってしまうのだが、それでも、平野啓一郎がブログに公開した文章の次の一節を読むと、さすがに何も感じないわけにはいかない。
処女作には、作家のすべてがあるという。私も勿論、そのつもりで、当時の私の全存在を賭して『日蝕』というあの作品を書いた。今のように、作家として認知され、その仕事に対して理解されていたわけでもない。同世代の誰もがそうであったように、私もまた、何でもないただの大学生であり、その不安に苛まれながら、自分とは一体何だろうか? 何のために存在しているのだろう? 自分の言葉は果たして人に届くのだろうか? という孤独な自問を繰り返しつつ、一語一語を絞り出すようにして書き綴っていった。あの小説を、単に頭で書いた作品だと言う人もいるが、何故そんなことを考えるようになったのか、という知的な活動の根源には、必ず個人の切実な問題があるはずである。そうした、作家にとっては一生にただ一度しかない掛け替えのない作品に対して、私は、【なるほどあそこをこんな風に料理しなおしたんだね】などという無責任な思いこみにより、「盗作」という屈辱的なレッテルを貼られたのである。
この問題については思うところが色々あるのだが、例によって例の如く夕飯にビールを飲んでしまったので酔っぱらって考えがまとまらない。というか、酔った状態でこんな微妙な問題について書くと何かとんでもないことを書いてしまいそうな気がする。
今日のところは、後日加筆訂正することとして、とりあえずメモとしてアップしておく。