岡崎京子の変身

栴檀は双葉より芳し」とは言うけれど、岡崎京子ほどその言葉にふさわしくない人はいないのではあるまいかと、しみじみと思うのです。

はっきり言って、出発点において、岡崎京子はたいした作家ではなかった。いかにも小さい。日常の細々したことを気の向くままに書き連ねて行く。絵は稚拙。技術の拙さをセンスだけでごまかしたハッタリ。ただ、そこからにじみ出してくる「肉声」が伝わる人には伝わります。「生々しさ」というのか「生活実感」というのか。いずれにしても手垢にまみれた表現で申し訳ないんだけども、語彙の貧弱な自分にはそうとしか言いようがないものがぐっと胸に迫ってきて、「ああ、そうなんだよ、そうなんだ…」と肯かされてしまう。
しかし、それは「万人の心に訴える深遠なテーマ」を持った作品ではありません。あくまで「個人的嗜好品」に留まる存在。自分は確かに好きだけども、他の人にまで読んでもらいたいとは思わない。自分だけでこっそり読んで、ふんふんと頷き、本棚の片隅にそっとしまっておく…そんな感じです。

それがふと気がついてみると、「時代」とか「社会」という、何かもっと巨大なものに正面から立ち向かう作家にごく自然に変身していたのですから、これは驚きでした。

いったいどうしてこんな変化が起こったのでしょう?
「下北沢」という、世田谷にしては下町っぽいゴチャゴチャした商店街に生まれ育ち、流行の音楽やファッションばかり追いかけていたはずの、ごく普通の女性が、どうして後の「岡崎京子」に変身してしまったのでしょう?

本当はその「どうして?」こそが問われるべき真の問題なのだけど、自分にとっては少々荷が重すぎる課題です。
ここではその真の課題に取り組む為の準備作業として、「どのような経緯を経て」岡崎京子が後の「岡崎京子」に至ったのか、その筋道を、作品を通して概観してみたいと思います。