「緑猿」としてのホリエモン (ライブドア強制捜査劇場)

米国のSF作家故シオドア・スタージョンの短編*1に「緑猿」というのが出てくる。猿を一匹ペンキで緑色に塗りたくって動物園の猿山に放り込んでやると、途端に周りの猿から攻撃を受け殺されてしまうという話だ。
ホリエモンがその「緑猿」に見えてくる。彼がやったことがはたして「犯罪」なのか否かという問題ではない。強制捜査が始まってから逮捕にまで至るその「過程」が問題なのだ。その一連の流れを見ていると、自分は何と「野蛮」で空恐ろしい社会に住んでいるのだろうと「絶望感」がこみ上げてくる。はっきり言って、これでは「無法地帯」だ。「何だかあいつは気に入らないな」と誰かが言い出して、周りの人間が何となくそれに同意すれば、即座に「リンチ」が始まる。それを防止する「理性的仕組み」が存在していない。罪刑法定主義も、法治主義も、形だけで本当の意味では機能しておらず、法は恣意的に運用され、しかもそのことを誰も問題にしようとしない。この社会に属する人々は、動物的な集団的攻撃本能の爆発に曝される危険性にいつも怯えていなくてはならないのだが、それが「おかしなこと」だと気づきもしない。日本人の「集団志向的パーソナリティー」はこうした「社会の後進性」の中で育まれてゆくのだ。


…というようなことを感じているのは自分だけではないはずで、事実、ネットを見渡せば、似たような感想がちらりほらりと見受けられる。
中でも、下記のリンク先では米国在住の複数の弁護士が法律家としての立場から今回の事件に対する感想を述べているので興味のある方は是非覗いてみて欲しい。要するに法律家の立場から見ると日本は「無法地帯」に見えると言うことだ。
http://www.ny47th.com/fallin_attorney/archives/2006/01/post_143.html
ライブドア問題と民主主義
≪追記≫
上記URLの考え方が「米国かぶれ」で日本の社会に当て嵌めようとすることには無理があるのではないかと考える人は、更に下記のリンク先を読んでみて欲しい。明らかに日本国の刑事訴訟法に違反する行為が、長年に亘って捜査当局によって慣行化されているという現実がここにある。「日本において成文法が在って無きが如し」という言い方は決して誇張ではない。信じられないかもしれないがそれが現実だ。

刑事訴訟法規則143条の3では、被疑者の逮捕が認められるのは、「逮捕」理由の罪障隠滅の場合と逃亡の恐れがあるためであり、この要件に該当しないことが明らかに認められるときは逮捕状の請求は却下することが義務付けられている。
 しかし、現実の司法において、検察官や司法警察職員は事実上、犯罪事実の取調を目的として逮捕状を取っており、この条文は形骸化している。そればかりか、余罪の追及のために、逮捕・拘留一回性の原則を無視して、ある罪状による逮捕・拘留の後、別罪で再逮捕する実務慣行すら定着している

(2006.01.25追記)



話は変わるが、亀井静香日枝久(フジテレビ会長)がいかにも嬉しそうな顔をしてテレビに映っているのを見るとむかつくなぁ… ホリエモンの肩を持つわけではないが、むかつく。あんまりむかつくのでホリエモンの肩を持ちたくなってくるほどむかつくぞ。

*1:「ミドリザルとの情事」、短編集「輝く断片」輝く断片 (奇想コレクション)収録