Q6.岡崎京子って要するにどんなマンガ家なんですか?

A.「誰もがそこにあることは感じているが、まだ名付けられていないもの」を描くことに成功したという意味で「芸術作品」としてのマンガを描くことに成功したマンガ家だと思います。


「芸術」などというと話が大仰になってしまうのですが、自分がかつて掲示板に書き込んだ一節を引用させて下さい。


芸術の使命とはいったい何でしょう?
そんな難しい問題にはとても答えきれないですね。少なくとも私は そうです。



でも、一つ思うことは、「まだ目に見えもせず、名付けられてもい ないが、そこに存在しているもの」を探り当て、それを表現することが、芸術の重大な使命の一つなのではないかな?、と、いうこと。



科学も哲学も、みんなそうかもしれません。ただ芸術は芸術なりの
方法でそれを実行するのです。
その「まだ目に見えもせず、名付けられてもいないが、そこに存在しているもの」とは、岡崎京子の場合、「今」という「時代」の「感触」のようなものでした。
そういう書き方をすると、岡崎が「風俗」を描いた作家であるかのような印象を与えるかもしれませんが、彼女が描いたものは、表面的な「風俗」なのではなく、何かもっと深いもの、社会のもっと奥深いところで始まった、「社会の仕組み」そのものの大きな変動によって引き起こされた「社会の肌触り」の変化です。


その「社会の仕組みそのものの大きな変動」とは、「市場原理」の社会へのヨリ徹底した浸透に他なりません。世の中で使われているもっと一般的な言葉でいうと「日本社会が後期資本主義の時代を迎えた」ということですね。*1


「市場原理」が我々の周囲にひたひたと押し寄せてきて、従来の人間関係のあり方や社会制度や価値観を変質させて行くとき、それが実際に我々にはどのように感じられるか、その「感触そのもの」を岡崎京子は見事に描き出したのです。


日本の社会は元々「資本主義社会」つまり「市場原理」の支配する社会だったのじゃないかという反論もありそうですが、そうではありません。古代から江戸時代にかけての日本が「偽の律令国家」であったように、明治以降の日本も「偽の近代社会」即ち「偽の資本主義社会」だったのです。


オリジナルな「文明」を持たない*2日本の社会は常にその時々に支配的な「文明」に「擬態」することによって生き延びてきました。
しかしその「擬態」の化けの皮も「資本主義」という怪物の前ではさすがに保たなくなりつつあるようです。90年代から始まり現在も続いている日本の社会と経済の混迷は、ますます強烈に押し寄せてくる「市場原理」の浸透に日本という「偽の資本主義社会」が動揺していることの表れに他なりません。


日本という「偽の資本主義社会」が「真の資本主義社会」ないしは「真の近代社会」に変身を遂げ、この動揺が終わる日が来るのかどうかは、分かりません。
ひょっとしたら変身に失敗し今度こそ本当に日本の社会が「壊れて」しまうことすらあり得ます。そうなれば社会の混迷はいつ果てることもなく続くことになるでしょう。
いずれにせよ、そうした社会の動揺が続く限りは、岡崎京子の作品は意味を持ち続けることになるでしょう。

*1:ここでは世に習い「後期資本主義」という言葉を使っておきますが、正直言って、この言葉は好きでありません。そもそも「資本主義」と言う言葉も曖昧なので嫌い。「市場経済」という言葉を使いたい。そして「市場経済」には「後期」も「前期」もありません。

*2:つまり「民族」や「国家」の枠を越えて機能する「社会組織化のための普遍的な方法」を自ら「発明」したことのない