岡崎京子を80年代に幽閉しようとしているのは誰か?
彼女より年長の男たちがこぞって彼女を自分たちの手前勝手な「80年代」に幽閉しようとしていることが、腹立たしくてならない。
(引用者注:太字は引用者による)
もちろん、大塚英志や宮沢章夫を批判すること自体は自由だ。
しかし、こういう書き方をされると、大塚英志や宮沢章夫以外の「彼女より年長の男たち」まで「こぞって」同じことをしていると言っているように聞こえてしまうので、抗議しておきたい。
自分も、「彼女より年長の男たち」の一人ではあるが、「彼女を自分たちの手前勝手な「80年代」に幽閉しようとしている」つもりはない。
むしろ
岡崎京子の「90年代」との格闘を引きつごうとする作家がいないことが私には残念だ
という気持ちにおいては、【海難記】の筆者と全く変わらるところがない。
だからこそ、岡崎京子のファンサイトを立ち上げたのであり、80年代の終りと90年代の始まりを告げる(と自分が信じる)「リバーズ・エッジ」の提灯持ちを自ら進んで引き受けたのだ。
80年代にルーツを持ちながらも、80年代の終りと90年代の始まりを誰よりも敏感に感じ取り、作家として自ら変身していったところが岡崎京子の素晴らしいところであり、だからこそ、岡崎京子は「今」も読まれる価値があると、自分は思っている。→「岡崎京子と80年代」*1
その点において、
彼女は「90年代」の人であり、少なくともそうであろうとした作家だったと思う
という思いも全く同じだ。
当時、リアルタイムで岡崎京子を追っていた愛読者であれば、その人が属する「世代」と関わりなく、少なからぬ人たちがそう思っていたことだろうと自分は信じる。
だから
岡崎京子と同学年の私
とか
岡崎さんと同時代を生きてきたという気持ちの強い私
というような、自分の世代だけを特権化するような言い方を自分は容認できない。
それだけ深い思い入れを表現するために「敢えてする言い回し」としてなら分からないでもないが、しかし、やっぱり、「90年代」を「生きた」のは仲俣暁生(と岡崎京子の世代)だけではない。
彼女の「90年代」との「格闘」は、同じように「90年代」と「格闘」せざるを得なかった他の世代の人々の心にも、世代の隔たりを越えて届いたのだ。
だからこそ、彼女の作品はこれほど広範な世代から共感を寄せられたのではないのか?
以上、「彼女より年長の男たち」の一人としての「抗議」、並びに「彼女の愛読者」の一人としての「共感の表明」(←これが大切)として。