冲方丁の「引き算手法」とその行く末について

蒼穹のファフナー (電撃文庫)

蒼穹のファフナー (電撃文庫)

冲方式ストーリー創作塾

冲方式ストーリー創作塾

マルドゥック・スクランブル」に腰を抜かして以来、冲方丁はすべて目を通すようにしている。小説だけではない。脚本を手がけたというのでアニメの「蒼穹のファフナー」も見た。もちろん冲方自身が手がけたその小説版にも目を通した。贔屓の引き倒しかもしれないが、アニメは、文句のない傑作とまではいかないものの、近年の佳作だと思ったし、小説版はアニメよりも更に「高度」な作品であるような印象を受けた。…要するに「贔屓」しているのである…

で、今回の「冲方丁式ストーリー創作塾」なのだが…

ちょっと当惑してしまった…

小説版「蒼穹のファフナー」執筆の手法として言わば「引き算手法」*1とでも呼ぶべきものを披露している。つまり「設定」を盛り込めるだけ盛り込んでおいて、そこから削れるものをどんどん削って行き、最後に必要不可欠の「設定」並びに「登場人物」だけで小説を作り上げるという方法だ。

表現したいことを表現するのに必要不可欠な最小限の部品だけで作品を作り上げる…

そう書いてしまえばたいそう美しい手法のように思える。
実際、小説版「蒼穹のファフナー」は小粒ながらも凝縮度の高い作品である。エッセンスを結晶化させたとでも言うべきか…、この作品はこの作品だけで完結している。アニメ版ファフナーを知らない人でも、この小説はこの小説だけで楽しめるだろう…

…が、しかし、問題はそのような「結晶化」を行うために切り捨てられた部分なのだ…
その切り捨てられた部分にこそ「物語の醍醐味」が含まれていたような気がしてならないのだ…
例えばアニメ版で物語が始まるなり自爆してしまう翔子。小説版ではその驚くべきキャラクターが明らかにされいて、それだけでもドキモを抜かれたのだが、「創作塾」の中で明らかにされた「設定」では更にその先がある。アニメを見てるとき、確かに引っかかったのだ。何故翔子は自爆しなくてはならないのか? その「動機」の部分が声優の臭い演技*2でごまかされていたが、アニメには描かれていない「動機」の「設定」がちゃんとあったのだ。なるほど、面白いじゃないか、と感心した。アニメではいろいろと制約があって取り込めず、声優の強引な「演技」でごまかすしかなかったのだろうけれど、やっぱり本当は「設定」はあったのだ。たいしたもんじゃないか、冲方丁

…なのに、小説版では翔子の自爆そのものがばっさりとカットされている。アニメ版の中でもとりわけ美しくて印象的なあのシーンが…

確かに、切り捨てることによって小説は美しくまとまったのかもしれない。
技術的な観点から言えばそれは正しい選択なのかもしれない。

しかし、一読者の素朴な観点からすれば、作品としてのまとまりの美しさのために切り捨てられた部分にこそ、自分が読みたい部分があったのだ…

設定をてんこ盛りに積み上げながら書くというのが自分の今までのスタイルだったが小説版「蒼穹のファフナー」ではそれと逆の方法で書くことが出来たと、作者本人はいたって満足げなのだけれど… それでいいのか、冲方君?

この先、作品のスタイルが磨き上げられてゆく一方で、物語が切り捨てられてゆくのだとしたら、自分は何だかイヤだなぁ… 自分は正直言って「引き算の冲方丁」より「足し算の冲方丁」のほうが好きなような気がする… 行く末に不安を感じてしまう…

冲方丁は、この先、何処へ行くのだろう…?

*1:そのような名称を冲方自身が使っているわけではない

*2:失礼