J・G・バラードはSFの王道

そう、柳下さんは大胆に言い放ったのです。「バラードこそがSFの王道ではないか」と。

翻訳家の増田まもる柳下毅一郎の対談。
対談を実際に聞いたわけではないのだけれど、このレポートを読む限りではとても充実した内容だったみたい。
特に柳下毅一郎のバラード観は自分のバラード観と一致するところも多いようで共感を覚える。


まず、大前提。
サイエンスとテクノロジーは別なものだということ。
当たり前のことであるはずだがこれを日常的にきちんと意識している人は割と少ないように思える。テレビ番組なんかではバカなアナウンサー(というかバカな放送作家?)がこの二つを混同して語ることが多いので、一般的に混同されてしまうのも無理はないのかもしれないけれど、何とかしろよ、NHK。


第二点として、これは同意してくれる人がグッと少なくなる主張なのだけれど、SFは実質的にサイエンス・フィクションなのではなくテクノロジー・フィクションであるということ。
サイエンス・フィクションと呼ばれるべき作品も確かに存在しているけれど、SFの大部分はむしろテクノロジー・フィクションとでも呼ばれるべき作品が占めていて、実質それがSFの「本体」である。
ちょっとぶった言い方をすれば「SFと呼ばれる小説の大部分はテクノロジーに関するポルノグラフィー(=願望充足小説)であった」ということ。


第三に、テクノロジーの適用対象が「自然」から「人間」へと移り変わってきているということ。
もっと分かりやすくいうとかつては「人間」がテクノロジーを武器に「自然」に立ち向かってコントロールを確立して行くという図式が支配的であったが、いつの間にか人間が人間もしくは社会に対してテクノロジーを適用することによって人間の社会自体を変質させて行くという図式に変わっていったということ。


ここまでは自分がそう思っているというだけのことであって、はたして柳下毅一郎もそう思っているかどうかは分からない。
柳下毅一郎と意見が一致しているのではないかと思うのは次の段階から。


つまり、第四として、J・G・バラードは誰よりも、このテクノロジーの適用対象が「自然」から「人間もしくは社会」に変わっていったこと対して敏感に反応していった作家であるということだ。
しかもこの傾向は後期の作品ほど顕著になってくる。
サイバーパンクの連中は例外だけど、殆どの凡庸なSF作家はテクノロジーの適用対象が自然から人間に変わっていったことに気付かないか、気付いたとしてもその意味するところをじっくりと考えようとはせず、相も変わらず宇宙船がどうしたとか宇宙人がどうしたとかいう、どうでもいいような話ばかり量産し続けていた…
バカかお前ら?
かくして、自分は、サイバーパンクを最後に、SFオタクから足を洗ってしまうことになるのだけれど…


強調しておきたいのは、自分がその中に暮らす「社会」の「変質」を知覚することは大層難しいということ。常にそこに在るものだからこそ改めて「発見」することが難しい。水を発見したのは少なくとも魚ではない。
しかしバラードだけは自分をどっぷりと取り巻く水の存在に気付くことの出来た類い希なる魚であったように思えてしかたがない。
そして本当に読む価値のあるSFを書くことが出来たのは、水発見能力を有する魚であるところのバラードだけなのだと自分は思っている。(というのはちょっと言い過ぎかもしれないけど…。ウィリアム・ギブスンをはじめとするサイバーパンク系は結構いいと思っている。最近ではチャールズ・ストロスが気になる。でも『シンギュラリティ・スカイ』シンギュラリティ・スカイ (ハヤカワ文庫SF)はつまらなかったな。『アッチェレランド』アッチェレランド (海外SFノヴェルズ)
を早く読まなくちゃ…)