タレブ『ブラック・スワン』

ビジネス書又は社会科学書として宣伝されているようだが、この本はむしろ「文学」に属するものだ。その意味でもっと洒落た翻訳で読みたかったと返す返すも残念でならない。*1

あたながもし初めてべき乗分布やカオスやフラクタルの世界に触れようというのであれば読むべき本は他にある。(推薦図書というか、自分が読んだ範囲ではこの辺りの方が分かりやすいんじゃないかと思う本を最後に挙げておく)
この本は、そうした基礎知識を前提に、現場に立つトレーダーがどのような感慨を懐いたのかを書き綴った随筆であって、いっそのこと『枕草子』や『徒然草』や『方丈記』の類の本だと思って読んだ方がまだ間違いがない。
もちろん、重要な基礎概念については筆者もちゃんと説明してくれているのだが、あまりにも言葉が巧みすぎるので、本当に分かったのか、それとも分かったような気分させられただけで実は分かっていないのか、かえって分からなくなってしまう。何しろ、これ、「文学書」だから…


まず最初にすっかり感心してしまったのは著者が自らの出自を語った部分だ。
あの麗しのレバノン。「中東のパリ」と讃えられた首都ベイルートを頂く、文化と富に満ち溢れた「天国」。
イスラム教とキリスト教のありとあらゆる少数派宗派が入り乱れて住んでいたにもかかわらず、人々は互いに寛容で、コミュニティーをまたいで交易にいそしみ、1000年にわたって平和が続いていた。私たちはバルカン半島の人たちとは違うと著者は学校で教えられたそうだ。我々が向上心と寛容の精神を持っているおかげで我々の社会は安定し釣り合いが取れている。我々はバルカン半島の人たちよりもずっと賢いのだと…
そんなレバノンの金と権力に恵まれた一族の一員として生まれ何不自由なく育った著者は当然のことながらその「天国」が気にくわず、反抗を企てることになる。

私の頭の中身がだいたい固まったのは十五歳の時だ。学生の暴動でコンクリートの欠片で警官を攻撃し(たことにされ)て、牢屋に放り込まれたのだった。おかしな巡り合わせで、私の祖父はそのころ内務大臣をしていて、私たちの反乱を鎮圧する命令にサインしたのがまさしく彼だった。飛んできた石が頭に当たった警官がパニックを起こし私たちに向かってでたらめにぶっ放して、暴徒の一人が弾に当たって死んだ。私は暴動のど真ん中にいて、牢屋とご両親の両方を怖がっている友だちを尻目に、逮捕されてものすごく満足を感じたのを覚えている。私たちは政府を震え上がらせた。おかげで私たちは恩赦をうけ、釈放された。

私は自分の意見に従って行動し、ほかの人を「怒らせ」たり苦しめたりするからといって一歩も引かなかった。おかげで、いくつかとてもいいことがあった。私は怒り心頭に達していて*2、両親(や祖父)が私のことをどう思おうが知ったことじゃなかった。それを見た彼らは私をとても怖れるようになった。

と、すっかりご満悦の著者だったが、数ヶ月で事態はすっかり変わってしまう。キリスト教徒とイスラム教との間に内戦が勃発し、十三世紀続いた多民族の共存が一瞬のうちに吹き飛んでしまったのだ。
人々は最初何が起こったのかよく理解できない。大人達は「戦争はあとほんの数日で終わる」と言い続けるが何の変化もないまま戦いだけがズルズルと続いて行く。レバノンパレスチナバルカン半島みたいなことになってしまうのかと不安がると著者のオジは言う。「そんなことはない。ここは他所とは違う。これまでもずっと違っていたんだし。」
停電が頻発するようになる。おかげで夜空は真っ暗だ。

そういうわけで、星がとてもはっきり見えた。惑星同士が均衡とかいう状態にあると高校で習った。ある日突然どれかの星が地球にぶつかるなんて心配しなくてもいいそうだ。なんだか、レバノンは「歴史上、他に例を見ないほどずっと安定している」という話に似ていて気味が悪かった。

カオス理論を多少はかじっていて惑星軌道が実は安定していないという話を聞いたことがある読者ならここでニヤリと笑うか、或いは感慨無量の溜息をつくだろう。けれど著者は説明せずに先へと進んで行く。分かる人だけに分かればいいのだ。何しろこれは「文学」だから。


というわけで、理論を学ぶにはあまり向いていない。
あくまで著者タレブの巧みな語り口調を楽しむための本だ。トレーダー生活を営むうちにタレブの胸の内に湧いてきた思いの丈とか、出会った人達のおかしな逸話とか、有名な金融工学者達をこき下ろすときのタレブの口調の痛快さとか…


タレブが突然日本のことに触れたときはビックリした。

人は損をすると恥ずかしく思うことが多い。だからボラティリティ(引用者注:要するに変動性)がとても小さく、でも大きな損失が出るリスクのある戦略をとる。機関車の前で小銭を集めるようなやりかただ。日本の文化はランダム性に間違った適応をしていて、運が悪かっただけでひどい成績が出ることもあるのがなかなか分からない。だから損をすると評判にひどい傷が付いたりする。あそこの人達はボラティリティを嫌い、代わりに吹き飛ぶリスクをとっている。

まったくそのとおりだ。
身の回りの多くの人達が社会の状況が将来にわたってまったく変化しないという前提で行動するのであきれてしまったことが何度あったことか…
どう考えても不合理なほどに今ある状況にそのまま留まり続けることに固執するのだ。適当なところで諦めて今あるものを手放し変化に備えた行動に移るか、少なくとも変化に身を委ねて変わることを受け容れなくてはかえってひどい目に会うことが明白であるにもかかわらず、頑なに今ある状態に固執する。それが積み重なって日本の社会全体を追いつめ、今のようなじり貧に至ったということがまだ分からないのだろうか?
だから、みんな、『ブラック・スワン』を読もうよ!
・・・とは言わない。
分からないヤツは置いてゆく本だから、どうせ分からないヤツに読ませても、何を言われているのか分かるはずがない。やっぱりこの本は「文学」だから。


というわけで『ブラック・スワン』を読んでいる最中に、ああ、こんなことは別な本に書いてあったっけな、それももっと分かりやすく親切に、尚かつ正確に…と思い当たった本を、最後に、何冊か挙げておく。あくまで自分が読んだ限られた範囲の中なので、もっといい本はあるのかもしれない。でも、基本概念の説明においては、少なくとも『ブラック・スワン』よりは分かりやすいと思う。何しろ『ブラック・スワン』は「文学書」だから…(しつこい)




カオス―新しい科学をつくる (新潮文庫)

カオス―新しい科学をつくる (新潮文庫)

18年前に読んでたいそうなショックを受けた基本図書。どうしてこのような名著が絶版になっているのか理解不能。世の中狂っている。是非図書館まで足を運んで読んで欲しい。この本が出てから5〜6年経った頃、カオスの概念を拡張したような「複雑系」というのが流行ってやたらと関連図書が出版されたことがあったのだけれど、はっきりいって内容ではどの本もこの本の足下にも及ばなかった。出来の悪い本を何冊も読むより、この本を一冊読む方がずっといい。絶対的に推奨。


経済物理学の発見 (光文社新書)

経済物理学の発見 (光文社新書)

べき乗分布の解説が懇切丁寧。掘り下げや含みはないけれど一通りのことがとりあえずは分かる良心的な本。


禁断の市場 フラクタルでみるリスクとリターン

禁断の市場 フラクタルでみるリスクとリターン

同じ著者の「フラクタル幾何学asin:4532062543に歯が立たなかった私でもこれなら安心。私のようなアホな読者向けにレベルを落として書いた本でもオリジナルの提唱者の言葉にはやっぱり得るものがある。『ブラック・スワン』も元ネタはマンデルブロ。というか『ブラック・スワン』自体がマンデルブロに捧げられた本だし。『ブラック・スワン』の中でもマンデルブロに会って共に過ごしたときのことが嬉しそうに書いてある。ひねくれた皮肉屋のタレブもマンデルブロだけには素直な敬意を示しているようだ。(マンデルブロに対してはグリックの「カオス」
asin:4102361014
の方がずっと意地が悪い。)
読むべし。すべてはここから始まった。

*1:ここでいう「文学」というのはあれである、昭和天皇が面と向かって戦争責任を追及されたときに言ったという「そうした文学方面の研究はしたことがない」という例のあの「文学」である。

*2:引用者注:「怒り心頭に発する」だよね。ATOK使うとちゃんと教えてくれるよ。