人生の教訓、或いはプリメインアンプは素直に使うべし

もう15年ぐらい同じアンプを使い続けている。山水電気サンスイ)のAU α607L EXTRAという機種だ。その前に使っていたパイオニアのアンプがダメになったので「アンプは山水」という当時の世評に従って、たいした考えもなく買い換えたのである。なるほど、それまで使っていたアンプに較べると、同じ価格帯であるにもかかわらず、確かにいい音だった。何をもって「いい音」とするのか、その基準は曖昧模糊として、まさに雲を掴むような話であるが、とにかく15年ほど昔の私は「山水のアンプは確かにいい音だ」と思い、そして満足したのである… 馬鹿な奴だ…


15年の月日が流れた。
しつこいようだが15年というのはやはり半端な年月ではない。その間に、20世紀後半の世界をおよそ50年間に亘って二分していた2つの<帝国>のうち、一方の「悪の帝国ソビエト社会主義共和国連邦はあれよあれよという間に瓦解し見事に滅び去り、「世界の仕組み」それ自体がガラリと変わってしまった。ニッポンでも阪神大震災で「我が青春の街、神戸」が瓦礫の山と化したかと思うと、翌年には「職場のそばの地下鉄」でサリンが撒かれる騒ぎ。辛くもサリンを吸わされることを免れたものの、世の中の「タガ」が外れたみたいだと思っていたら、岡崎京子車にはねられた。やがて北海道拓殖銀行山一証券と(ニッポンの護送船団方式の下では潰れるはずがないと考えられていた)大手金融機関が立て続けに潰れ、アメリカの新聞*1が「ニッポン崩壊(JAPAN MELTDOWN)」と嬉しそうに書き立てた。「いい気になんなよ、アメ公!」と憤っていたら、不景気の底が割れてニッポンは未曾有の大不況に突入してゆく… ほうほうの体で21世紀にたどり着いた途端、ニューヨークでは旅客機がワールド・トレード・センターに突っ込んでまたもや世界中がざわつき始め、気がついてみればニッポンはアメリカに顎の先で扱き使われるズタボロの国… アンプを買った年にものごころつき始めた少年達も今では立派なニートである(ホントかよ!←自己ツッコミ)。ものごころついて以来、こんな惨状しか目にしたことが無かった彼らに70年代から80年代にかけてニッポンが享受した平和と繁栄のことを説明したとしても、それが今自分たちが目の当たりにしているのと同じ国の話であることを信じてもらえるのだろうか? 当時と較べれば今の日本の社会はもはや「別世界」の観がある…


…で、山水のアンプの話に戻る。
このように長い長い年月が流れ去り、人も世相もすっかり変わり果ててしまう中でも、変わることなく、十年一日の如くどころか、十五年一日の如く、ずっと私は山水のアンプを聴き続けていた。この15年間にスピーカーもCDプレーヤーもそれぞれ一回ずつ買い換えた*2が、アンプだけは山水のまま。それほどに気に入っていたのかと言われるかもしれないが、実はそういうわけでもない。特に不満が無かったからと言うのが本当の理由である。それに音を変えたいなら「入口」と「出口」が基本。つまり「CDプレーヤー」か「スピーカー」を替えた方が効果が実感できる。アンプは「入口」と「出口」をつなぐものに過ぎない。「入口」から入ってきたものを「ただ忠実に」そっくりそのまま「出口」素通しするのが「アンプの理想」。音に「余計な色」を着けるなんていうのは論外、はっきり言って「邪道」。それが「理屈」というもの。それこそがオーディオの「原理」。頑なな「原理主義者」たる私は山水のアンプの場合も、その「原理主義」を貫き、「パワーアンプダイレクト端子」にCDプレーヤーを接続して悦に入っていた。すなわち、CDプレーヤーから出てきた「信号」を、プリアンプ*3を経由せずに、純粋に増幅だけを行うパワーアンプ部に直接送り込んでいたのである。それが一番「正しい」音であり、最も「正しい音」こそが最も「美しい音」である、はずであった。なぜなら「真善美」、「真」なるものはすなわち「善」であり「美」であるはずだから…


…しかし、その日はやって来た。
ああ、もう遅い。続きは明日。


今日は「明日」である。
夜が明ければ一時の興も冷め昨日書いた文章がひどくつまらないものに思えてきたので手早く結論だけを書く。
この年末、ふと思いついて、CDプレーヤーをフツウに「CDプレーヤー端子」につないでみたら、音が見違えるほど好くなった。
とにかく「透明」でしかも良く「伸びる」。澄んだ高音がキィーンと「静寂」の中を何処までも何処までも伸びてゆく。ピアノの響きの余韻は絶品。ヴァイオリンの音色も柔らかく心地よい。「透明」であるのに音に「腰」と「粘り」が出てそれが「官能」を刺激する。
これがこのアンプの「本当の音」だったのか…、凄いじゃないか…、今までの15年聴いていた(今聴いているこの音に較べれば)あの味も素っ気もない音は何だったのだろう…と、しばしコトバも無く立ち尽すばかり。
それはプリアンプを通過して「化粧」された音であり、「原音に忠実」ではない、謂わば「偽りの音」であるはずなのに、「原音に忠実」な「真実の音」より「妖しく」心を掻き乱す。
またもや「理論」に溺れて「現実」を見失っていた…
そのことに気がつかないで終わってしまうより、幾ら遅くなっても「現実」に出会った方がマシだし、「現実」と出会えたことには感謝したい。
しかし、「失った15年」はもう戻らない…
もっと「賢く」なりたいものだとしみじみ思った。

以上。



編集履歴: 2006.01.06途中まで書いてアップロード、2006.01.07前日分を校正した上で結論追加、2006.02.17「AU α607L EXTRA」のリンク先を変更

*1:確かワシントン・ポスト紙だったと思う

*2:CDプレーヤーはティアックからデンオンへ、スピーカーはヤマハからBOSEへそれぞれ乗り換えた。

*3:低音や高音を強調したり逆に弱めたりすることによって「音に色を付ける」部分