ファウスト、上遠野浩平、西尾維新、或いは「歴史」ということ

ファウスト」の第5号の発売が近づいている。待ち遠しい(写真のように本棚に場所を空けて待っている)。何しろ上遠野浩平特集号だ。ライトノベルといえばやっぱり上遠野浩平「ファウスト」の創刊号に上遠野浩平の(エッセイではなく)「小説」が見あたらなかったとき、とても寂しい思いをしたのだけれど、やっとその物足りない思いが満たされる日がやってくる。編集長の上遠野浩平に対する思い入れもたっぷりみたいだし、きっとこれは気合いの入った特集になるに違いない。ライトノベルの「今」といえば西尾維新に違いないが、その西尾維新すら「ライトノベルで一人名前を挙げろといわれれば上遠野浩平だ」と発言している。*1
確かに「今」のライトノベル興隆の源流は、直接的には上遠野浩平に求めるべきだというのが、正直な実感である。もちろん、いろんな考え方があるのは承知している。例えば近頃集中して出版されたライトノベル読本の中でも「ライトノベル☆めった斬り!ライトノベル☆めった斬り!において、大森望氏は、平井和正「超革命的中学生集団」*2にその源流を見いだそうとしているようだ。こうした「源流」探しや「歴史」構築の意義は認めるし、決して否定できるものではない。ライトノベルというものの範囲を広く捕らえれば確かにそうした見方も可能なのかもしれない。しかし「今」のライトノベル、「今」このとき多くの人々の心を掴み揺り動かしているそのライトノベルについていうならば、大森氏のように「源流」を「超革命的中学生集団」にまで遡るのは適切ではない。「歴史」は一様に流れるものではない。「日本」の「源流」は、なるほど、「邪馬台国」や「大和朝廷」に求めることが可能なのかもしれないが、「今の日本」、この現代社会を語るのであれば、その「源流」は間違いなく「明治維新」に求めるべきであって、そこで「邪馬台国」や「大和朝廷」に言及することはあまり適切なことだとは言えない。「日本」の「歴史」は「明治維新」を経ることによって転換したのだ。そこで、「社会」も「人々の意識」もそれまでの時代とは大きく変わってしまったのだ。それと同じようにライトノベルの「歴史」も「上遠野浩平」を経ることによって大きな質的変化を遂げついには「西尾維新」に至ったのである。ライトノベルの「歴史構築」の試みにおいて、こうした「歴史の転換点」を大森氏は意識していたのであろうか? 「西尾維新からメフィスト賞がわからなくなった」と公言する氏のことであるから、少々怪しいのではないかと、私は思うのだけど…*3
以上、ライトノベルの「維新」は「西尾」にではなく、実は、「上遠野」にあったのだ!、と落ちたところで、この項お終い。お粗末。

(初稿です。まだ内容変えるかも。とりあえず公開)

*1:インタビュー「偏在するトラウマ、壊れた世界」、「ユリイカ」2004.9増刊号総特集西尾維新p.91収録

*2:1970年代の作品。旺文社の中学生向け学習雑誌に連載されていたこの作品を私はリアルタイムで読んでいた覚えがある…ああ、年齢が…

*3:なあんてことを書いてるくせに、実は、私は「ライトノベル☆めった斬り!」をまだきちんと読んだことがない。おお、怖… こんなことを書いてしまったからにはすぐに買ってきちんと読みます。ごめんなさい、大森さん。「文学賞メッタ斬り!文学賞メッタ斬り!の方はちゃんと買ってちゃんと読んだから許してください。