森博嗣『すべてがFになる』

すべてがFになる (講談社文庫)

すべてがFになる (講談社文庫)

今頃初めて読んだんですけれどね…
今まで、誰も教えてくれなかったんだな…
…それは多分、メフィスト系ミステリー・ファンの常識なんだろうけれど、常識であるが故にかえって誰も口にしないのかも…
でも、おかげで知らない人はいつまで経っても知らない、なんてことになるんですよ、自分みたいに…


いえ、要するに、西尾維新の『クビキリサイクルクビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)って、森博嗣の『すべてがFになる』だったんだな、ということなんですけどね。
ちなみに、『クビキリサイクル』は西尾維新のデビュー作にして第23回メフィスト賞受賞作。これに対して『すべてがFになる』は森博嗣のデビュー作にして第1回メフィスト賞受賞作です。
つまり、同じメフィスト賞の先輩作家に対して後輩作家がオマージュを捧げるというか、リスペクトしながら引用するというか、とにかく新人西尾維新のデビューにあたっては、そういう構図が「演出」されていたんですね…
要するにそれだけのことなんですけど…


今まで『クビキリサイクル』ってちょっとした「謎」だったんです。自分の西尾維新開眼は『新本格魔法少女りすか』新本格魔法少女りすか (講談社ノベルズ)で、その後デビュー後第二作の『クビシメロマンチストクビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社ノベルス)を読んで、その「愛」は決定的になったんですけど、でも『クビキリサイクル』は分からなかった…
何なんだろう、この変な話?
他の作品は「分かる」のに、この作品だけは分からない。それは確かに設定は「奇想」とでもいうしかない感じだけれど、面白く無いじゃないか… でも、編集者はこの作品を高く評価して、デビュー作に仕立て上げたんだよな。その後、西尾維新の才能が『クビシメロマンチスト』で一気に開花する可能性をこの作品の中に読み取っていたということだ。自分にはそんな可能性なんて全然読み取れない。ダメなオレ… それに較べると何て素晴らしい眼力! やっぱり才能ある編集者は違う…


…なんてことを考えていたんですけれどね。
…でも、『すべてがFになる』を読んで、謎が一気に解けましたよ。





分かってしまうと、正直言って、つまんないな、と思う。
新人を、その賞の第一回受賞作に対するオマージュで同じ賞からデビューさせようなんて… ネェ? 何というか… くだらない演出というか…


オマージュとして素晴らしい出来であったなら、それも一興というところかもしれない。でも、元ネタを知るとますます面白くない作品だなって思うんですよね、『クビキリサイクル』の場合は…


いえ、西尾維新を貶しているんじゃないんですよ。
デビュー作が『すべてがFになる』のオマージュであることが分かったからといって、西尾作品への評価が下がるわけではない。元々、自分が好きなのは『クビシメロマンチスト』以降の西尾維新ですし…


ただ、『クビキリサイクル』には自分の分からない素晴らしさがあるのではないかと期待していただけに、その「仕掛け」を知って、何だかちょっとガッカリしてしまったというか…


で、肝心の『すべてFになる』ですけれど、面白かったですよ、やっぱり。十年遅れで読んで、今更何を言ってるんだと言われるかもしれないけれど、でも、面白かった。
妙に生活感が無くて、奇妙なこの雰囲気。でも、この作りものめいた世界の雰囲気は、単なる意匠ではなく、作者その人の世界観の反映であり、作品のテーマそのものでもある。

作品の初めの方で「仮想現実はやがて単なる現実になる」と登場人物の一人が宣言したとき、思い当たることがあるだけに、「おお、来たか!」と思いましたよ。この瞬間に、この作者が「分かった!」と思った…

クビキリサイクル』に於ける西尾維新にはそういった世界観というか思想はないよね。本当の意味での「世界観」なり思想なりが無くて、せいぜいのところがゲームの設定並みの薄っぺらな「世界観」の中であてもなく彷徨うことが『クビシメロマンチスト』以降の西尾維新の魅力の一つでもあるのだけれど、『すべてFになる』にオマージュを捧げるのであれば、それじゃダメだ、と私は思う。そういう意味で西尾維新森博嗣を分かってないじゃないかなぁ…
ええ、もちろん、西尾維新西尾維新の作品を書けばいいのであって、先輩作家にオマージュを捧げるのが上手くなくたって、そんなことはどうでもいいんですけどね…

…『すべてがFになる』の読書感想文を書こうと思ったのに、『クビキリサイクル』の感想文になってしまった。

以上。