宇野常寛『ゼロ年代の想像力』
コトの起こりはこちらですね。
10年前、東浩紀さんに代表される「セカイ系」的な感性は、たしかに新しい「ニュータイプ」だったかもしれません。しかし、あれから10年経った今、「セカイ系」はむしろ時代についていけない「オールドタイプ」の感性の代名詞になりつつある
これに対して東浩紀も早速「大人の貫禄」を披露。
第1回はほとんど東浩紀批判なのですが、この批判には一定の説得力があり、そのような批判が自分より7歳下から出てきたことを嬉しく思います。
脇の方から煽る人が現れたり・・・
「ようやくエヴァンゲリオンに象徴される、95年文化圏の終わりが来たな」
前後してネット上でもいろいろな反響が沸き起こりましたが、自分が目にした範囲ではこれが一番面白かったですよ。
「大きな物語」が人間にとって必需品であるのではなく、「承認」こそが必需品であるということ。そして、近代は、その必需品である「承認」が、「大きな物語」によってしか得られない、そんなメカニズムを作ることによって、「大きな物語」が人間にとって必需品であることを捏造したということを示す。その段階においては、『ゼロ年代の想像力』は、その捏造を強化するための言説装置として分析される。つまり、社会のメカニズムから目を背けさせることによって、「大きな物語」の崩壊が即セカイ系的アパシー、あるいは決断主義的アノミーに繋がることを自明視させる、そういう罠として、『ゼロ年代の想像力』は捉えなおされる。
まず、「ゼロ年代の想像力」はどのようなことを主張しているか、僕なりに要約してみようと思う。・・・・
肝心の『ゼロ年代の想像力』連載の方では第二回目で「決断主義」を批判的に検証した上で、いよいよ次回以降から「本当に語られるべき作家たち*1」について語り始める由。
ここ何年も、いや、何十年も、惰性で買い続け、積ん読だけになっていた「SFマガジン」ですが、また読むところができたので嬉しいですよ、私は・・・
*1:宮藤官九郎・木皿泉・よしながふみ、即ち『木更津キャッツアイ』『マンハッタンラブストーリー』『すいか』『野ブタ。をプロデュース』『フラワー・オブ・ライフ』