これなら分かる利根川東遷事業の使用前・使用後

利根川といえば日本で一番大きな川。関東平野の深部に流れを発し、千葉県の犬吠埼から太平洋に直接注ぎ込んでいることは日本人の常識ですね。
でも、この利根川、昔は東京湾に注ぎ込んでいたのだとか。それを江戸時代の人たちが大規模な土木工事を行い、川の流れを変え、力ずくで太平洋に流れ込む川にしてしまったというのです。
何かスゴイ話ですね。
Wikipedia利根川東遷事業)等で詳しいことを調べてみようとしたのですが、経緯が錯綜していてなかなか全貌が把握しきれません。その上、同じ川でも場所(例えば上流と下流)や時代によって名前が変わるし、更には時々大きな洪水が起こって川の流れが完全に変わってしまったりする。もう何が何だか分からなくなってきます。そもそも川筋自体が網の目のように入り組んでいて、工事前・工事後の地図(利根川東遷事業)を見ても、何処がどう変わったのかを把握事すら困難です。これはもう、一度思い切って単純化してまとめてみるしかありません…


というわけで、細かな枝葉は無視*1して、何がどう変わったのか、自分の理解した範囲でざっくりとまとめてみました。

江戸時代初めの状況
利根川水系江戸時代当初
あくまで模式図ということで。
従って説明とは関係のない多摩川は省略。
江戸時代初め、関東平野には4本の川が流れていた。
西から順に隅田川*2利根川渡良瀬川*3、鬼怒川。
尚、荒川は利根川の支流だった。
このうち3本(隅田川利根川渡良瀬川)は東京湾に注ぎ込み*4、鬼怒川は犬吠埼から太平洋へと注ぎ込んでいた。
明治時代の状況
利根川水系明治
江戸時代に河川の付け替え工事が行われた結果です。
荒川は利根川から切り離され隅田川に接続された。(1629年。ソース:「荒川」@Wikipedia*5
利根川は途中で分断され上流は渡良瀬川に接続された。(1621年。ソース:利根川東遷事業@Wikipedia*6
渡良瀬川は、利根川との合流点の下流で、新たに鬼怒川と連結された。(1654年。ソース:利根川東遷事業@Wikipedia)ただし下流は相変わらず東京湾に注いでいる。
現在の状況
利根川水系今
オマケです。
隅田川は荒川と合流した結果水量が増え氾濫しやすくなった。
そこで大正時代から昭和の初期にかけて新たに荒川放水路が作られ、これによって隅田川下流と旧利根川下流部分が連結された。
結果、隅田川下流の流量は減少し氾濫が抑制された。
つまりこれが前回そのほとりを歩いた荒川(荒川放水路)ですね。
変遷のまとめ動画

以上江戸時代から明治を経て現在に至るまでの経緯を動画にまとめてみました。こうしてみると変化が一目で分かるかな?

以上、今日の所は下書きのみアップロード。

*1:特に川筋の正確な形状や時代や部位による名前の違い

*2:かえって分かりにくくなるかもしれませんが、正確さを期するため、以下注釈を付けます。隅田川というのは入間川の下級域の呼び名なのですが、ここでは分かり易く入間川全体を隅田川と呼ぶことにします。

*3:江戸時代において上流が渡良瀬川下流は太日川と呼ばれていました。更に後この太日川は江戸川と呼ばれるようになります。ここではこれらの全体を渡良瀬川と呼ぶことにします。

*4:今の荒川の河口が利根川の河口で、旧江戸川の河口と呼ばれているところが渡良瀬川の河口だったようです。もっとも長年のうちに地形そのものが変わってしまっているために昔の地形を現在の地形にぴったり重ねることには無理があるとのこと。あくまで敢えて重ねればの話です。隅田川も今の足立区と葛飾区の境界を流れていたりと現在の様子とかなり違いがあるのですが、河口の位置は今と余り変わりがないようです。とにかくこれはあくまで模式図だと理解してください。

*5:現在の荒川と隅田川入間川)の合流点は川越市東部に位置している。

*6:分断された下流域に注目。図で言うと中央の歪んだYの字型の部分。利根川と荒川から切り離されたにもかかわらず、この部分は今でも川として健在です。Yの字の右側の角はかつて利根川だった部分で、今でも古利根川と呼ばれています。左側の角はかつての荒川だった部分で同じく古荒川。合流して中川と名前を変え、東京湾に注ぎ込む直前に荒川放水路に合流して「荒川」として東京湾に流れ込んでいる。ちなみに現在この古利根川と古荒川の合流点は埼玉県の吉川市越谷市の境界線上にあります。